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東京高等裁判所 昭和44年(ネ)1004号 判決 1970年8月01日

控訴人

右代表者法務大臣

小林武治

右指定代理人

朝山崇

外三名

被控訴人

甲山A夫

外二六名

右訴訟代理人

岡崎一夫

外三七一名

主文

一  被控訴人乙川B雄、同丙谷C郎、同丁沢D介をのぞくその余の被控訴人らに対する本件各控訴を棄却する。

ただし、原判決主文第一項のうち控訴人に対し第一審原告戊野E作、同戊野F子への金員の支払を命ずる部分を次のとおり訂正する。

控訴人は、被控訴人(兼戊野E作の訴訟承継人)戊野F子に対し金一八六万二七二〇円、被控訴人(戊野E作の訴訟承継人)戊野G平、同己原H美、同戊野I吉に対し各金九〇万八四八〇円、およびこれらの各金員に対するそれぞれ昭和三八年九月一三日から支払いずみにいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原判決主文第一項のうち、控訴人に対し被控訴人乙川B雄、同丙谷C郎、同丁沢D介への金員の支払を命ずる部分を次のとおり変更する。

1  控訴人は、被控訴人乙川B雄に対し金一五二万七五〇六円、同丙谷C郎に対し金二四五万四六〇六円、同丁沢D介に対し金一二九万五六一八円、およびこれらの各金員に対するそれぞれ昭和三八年九月一三日から支払いずみにいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

2  同被控訴人らのその余の請求を棄却する。

三  原審における訴訟費用の負担は、原判決主文第三項記載のとおりとし、当審における訴訟費用は、全部控訴人の負担とする。

事実《省略》

理由

目次

第一  はじめに

一  略語などについて

二  事件の経過

三  被控訴人らの請求原因の要旨と、その問題点

1  捜査・公訴の提起・維持の違法性及び故意・過失について

(い) 公権力の行使

(ろ) 違法性

(は) 違法性判断の資料

(に) 違法性の有無に関する立証責任

(ほ) 故意・過失

2  控訴人の時効の抗弁について

第二公訴の提起・維持について、違法性と故意・過失の有無の検討

一  はじめに

二  八月一五日国鉄側謀議および実行行為についての庚崎自白、実行行為についての辛田自白について

1  検察官の主張、その証拠

2  庚崎自白の信用性

(1) 庚崎自白の事実に反する点、不合理もしくは不自然と思われる点

(い) 一五日国鉄側謀議の席に、当日そこにいるはずのない壬岡と癸井がいたと云つていること

(ろ) 一五日国鉄謀議の場所

(は) 集合出発地点およびこれに続く往路の一部変更

(に) 永井川信号所南部踏切の通過

(ほ) 遊間調査

(へ) 線路破壊作業

(と) 帰路の一部変更

(ち) 遭遇列車

(り) 東芝側の実行行為担当者としての丑木・辛田の特定

(2) 庚崎自白を補強するものとして主張された資料について

(い) 寅葉自認

(ろ) 卯波・辰口・甲山各供述

(は) 庚崎予言

(に) 壬岡J夫供述

(ほ) 巳上供述

(へ) 庚崎失言

(と) 卯波K雄方の電灯

3  実行行為についての辛田自白および実行行為に関連するその他の自白について

4  壬岡L郎の実行行為に関するアリバイについて

(い) 双方の主張と問題点

(ろ) 壬岡が一六日夜自宅をぬけ出し、翌朝自宅に戻つた事実について、積極的な証拠があるか、人に気付かれることなくそのような行動をすることが可能であつたか

(は) 壬岡方のラジオが故障していたという甲山M代の供述および一七日早朝壬岡が国労福島支部事務所に姿を見せたという午下N介の供述について

(イ) 甲山M代供述

(ロ) 午下供述

(に) 壬岡アリバイの成立を否定しうるか

5  卯波O作の実行行為に関するアリバイについて

(い) 卯波の主張と問題点

(ろ) 午下N介の供述

(は) 電話

(イ) 未山電話

(ロ) 郡山分会からの電話

(ハ) 申川電話

(に) その他の証拠、特に甲山P江・卯波Q子の各供述について

三  八月一三日および同月一五日の国労福島支部事務所における各連絡謀議についての戊野自白

1  公訴事実および証拠

2  戊野自白の信用性

(い) その変遷

(ろ) 顛覆謝礼金自白

(は) 謀議の場所

3  戊野自白の支えとしての資料

4  乙川B雄の八月一三日のアリバイについて

(い) 双方の主張と問題点

(ろ) 乙川のアリバイに関する証拠

(は) 八月一三日の乙川の所在に関するその他の証拠にについて

5  丑木R作の八月一三日のアリバイについて

(い) 問題点

(ろ) 団体交渉開催要求の交渉が午前一〇時から午後〇時四五分まで行われ丑木もそこに出席したこと

(は) 丑木はこの交渉の席にいつまでいたか

(に) この日丑木が戊野の福島行に同行しなかつた事実を裏付ける他の証拠

(ほ) 控訴人の援用する証拠について

6  丑木R作の八月一五日のアリバイについて

(い) 問題点

(ろ) 丑木の同日正午までの行動

(は) 丑木の同日午後の行動に関する証拠

(に) 一五日連絡謀議に関する戊野自白と丑木アリバイ

四  その他の公訴事実およびアリバイ主張について

五  公訴の提起、その維持の違法性、過失について

第三被控訴人らの主張するその他の違法行為について

第四損害

第五結語

(目次終り)

第一  はじめに

一  略語などについて団体と場所の表示、当事者および関係人の呼び方、証拠等の表示、時刻のあらわし方などについては、次に記載するほかは、原判決の凡例の記載(原判決の二枚目から一〇枚目裏一行まで、集二頁から七頁一七行まで)の例にならう。なお原判決の一一枚目以下、集八頁以下の三つの図面をも参照されたい。

1理由の説明のなかで、「被控訴人ら」という語を、この事件の被控訴人の全員を指称する意味で用いるほかに、もと刑事事件において被告人とされた者(第一審原告戊野E作を含めて)のみを指称する意味で用いることがある。そのいずれの意味で用いているかが、前後の文章から明らかな場合は、特にことわらない。

2日の表示について、年を記載しないものは昭和二四年、年月を記載しないものはすべて昭和二四年八月のこと。

3原判決に添付の各準備書面の記載を引用する際に、その頁数をあらわすには、すべて原判決添付の同準備書面の頁数によつた。控訴人の当審で陳述した準備書面の記載を引用する際には、この判決添付の準備書面の頁数を引いた。

4この判決の理由の中で示す書証の表示は、原判決の凡例の中でことわつているように、やはり写の頁数によつてするが、この写にはその大部分に原本の丁数・頁数が記入してあるので、原本の検出はそれによつていただきたい。

5この判決の理由の中で、刑事事件の段階で作成された供述調書などを証拠として示すのに「供述」、「証言」などという場合があるが、それはすべてその供述調書の記載内容を証拠とする趣旨である。当然のことながら念のため。

6本件の各刑事事件の判決参照のためしるした頁数は、最高裁判例集一三巻九号(上)(中)(下)、同一七巻七号(上)(下)にそれぞれ登載されているこれらの判決の各分冊ごとの括弧内の頁数である。

7原判決の引用については、その原本の頁数をしるしたあとに、下級裁判所民事裁判例集二〇巻三・四号別冊(上)(下)に登載の同判決の頁数をも、たとえば集二五五頁としてしめした。

二  事件の経過本件の刑事事件の経過は、原判決理由第一章第一節(原判決九頁三行以下、集四頁三行以下)に記載のとおりであるから、これを引用する。

三  被控訴人らの請求原因の要旨と、その問題点被控訴人らの主張の要旨は、つぎのとおりである。警察官および検察官は、被控訴人らが無実であるのに、犯罪事実について根拠のない構想をたてて、被控訴人らを取り調べ、自白を強要し、その結果なされた虚偽の自白に基いて、被控訴人らを(イ)逮捕、勾留し、(ロ)公訴を提起し、(ハ)公訴を維持し、(ニ)公訴追行の過程においても、被控訴人らに有利な証拠を故意に提出せず、又はこれらの証拠をかくすなどの違法を敢えてし、その結果被控訴人らに対し財産上・精神上の損害をこおむらした、というにある。

1捜査・公訴の提起・維持の違法性及び故意・過失について

(い) 公権力の行使  前記請求原因要旨中の(イ)・(ロ)・(ハ)の各行為及び(ニ)の公訴追行の過程における証拠の取扱いに関する行為が、国家賠償法第一条の規定にいう「国の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行なうについて」した行為に当ることについては、異論がないであろう。

(ろ) 違法性  ところで、捜査権および公訴権の行使は、その性質上当然に相手方たる被疑者又は被告人の基本的人権を多かれ少なかれ侵害するものであるから、その違法性判断の基準として権利侵害の概念を持ち出すのは相当でないことが明らかで、国家賠償法第一条の規定する「違法に」というのは、右の権利侵害が違法に加えられたこと、すなわち、国の権力行使が、客観的に見て、法の許容する限界を越えてされることを指しているものと考えてよいであろう。これらの権力行使は多くの場合法令によつて規制されているが、その違法性の有無を判断するについては、狭義の法規違反のみに限るべきでなく、基本的人権の尊重・権利乱用の禁止・公共の福祉の維持・公序良俗・信義則・条理などの、法運用の一般原則をもとり入れて判断の基準とすべきことは云うまでもない。なお、これらの権力を行使する公務員は、第三者たる被疑者又は被告人に対しその権力の行使をするに当つて、法の許容する限界を越えてはならない、という職務上の義務を負担しているから、公務員の主観的側面からみれば、「違法性」はかかる公務員の職務上の義務違反を指すことになる。

以上のように考えると、(イ)起訴前の逮捕・勾留は、犯罪の嫌疑について相当な理由がないこと又は身柄拘束の必要がないことが明らかであるのに行なわれたときは、法の許容する限界を越えたものとして違法性を帯びることになり、(ロ)公訴の提起・維持、起訴後の勾留は、公訴事実について、証拠上合理的な疑いが顕著に存在し、有罪の判決を期待しうる可能性が乏しいのに敢えてなされたとき違法である。

しかし、刑事事件において結果として無罪の判決が確定したというだけで直ちに右の違法を云々することのできないのはいうまでもない。刑事訴訟においては、検察官が公訴事実の存在を合理的な疑いを容れない程度に証明しない限り無罪の判決がなされる。刑事訴訟法は、裁判官による証拠の評価につき自由心証主義を採用したが、人によつて証拠の証明力の評価の仕方に違いがあるため、一定の証拠によつて形成される心証の態様強弱の程度についても、ある程度の個人差が生じることを避けがたい。裁判官と検察官との間においても、その立場を異にする関係からして、証拠の見方や心証の強弱に多少の差異がないとは云い切れない。それであるから、裁判官が審理の結果、犯罪事実につき証明なしと判断して無罪の判決をした場合でも、これによつて直ちに警察官又は検察官のした逮捕・勾留、公訴の提起・維持などの権力行使が違法であると断ずべきではない。これらの権力行使が違法であるというためには、警察官又は検察官の判断が、証拠の評価について通常考えられる右の個人差を考慮に入れても、なおかつ行きすぎで、経験則・論理則からして到底その合理性を肯定することができない、という程度に達していることが必要である。無罪の判決が確定しても、検察官の判断が、通常考えられる右の差異の範囲内のものとして是認できる場合には、その権力行使は適法行為として、これによる損害は刑事補償の対象になるだけで、国家賠償法による賠償の対象とはならないのである。

(は) 違法性判断の資料  右の違法性判断の資料としては、警察官および検察官が、当該行為の段階において持つていた資料およびその段階において将来入手することを期待しえた資料を被告人に有利なもの不利なものの一切を含めて斟酌すべきである。刑事訴訟における証拠の提出(ある証拠を提出するか、しないか、提出の時期・方法など)は、当事者主義の結果原則として当事者の任意にまかされているが、警察官又は検察官は以上の各権力行使をするに当つて、その各段階において手持ちの、および将来入手の期待しうるすべての資料に基いて判断をするのであるから、これらの判断の適否を判断するについても、当該刑事事件において提出されたもののみに限定さるべきでないのはいうでもない。

(に) 違法性の有無に関する立証責任以上の意味の違法性の有無に関する立証責任は、控訴人すなわち国の側にあると解すべきである。国は、公訴の提起及びその維持に当つて証拠上犯罪事実立証の可能性があつたこと、少なくとも、証拠判断に関する前記の個人差を考慮すれば、犯罪事実の存在が肯定される可能性があつたことについて立証責任を負う。

なお、被控訴人らは、国の本件各権力行使が違法であることの理由として、被控訴人らが無実(犯罪事実の不存在)であることを強調する。しかし、違法性の認定については、さきに示した基準によれば足り、被控訴人らが無実であることを積極的に認定する要はないし、またこの点の立証責任が被控訴人らの側にあるわけでもない。原判決も、被控訴人らの本訴請求権が損害の発生との関連において無実であることを前提としてはじめて成立する性質のものであるとの見解(原判決五八頁以下、集二一頁以下)のもとに、被控訴人らの無実を積極的に認定しているが、犯罪事実存否の判断は、前記のとおり、違法性の判断との関連においてすべきであり、損害の発生、その額についての判断は、これと切り離して、被控訴人らの主張する損害と権利侵害(逮捕・勾留による身体の自由の侵害、名誉・信用の毀損、被疑者・被告人あつかいをされたことによる名誉・信用の毀損)との間に、客観的にみて相当因果関係が存在するかどうかを検討することによつてすべきである。

(ほ) 故意・過失  一般に、不法行為における故意とは、一定の結果の発生と、それが違法であることを認識しながらあえて行なう心理状態をいい、過失とは、一定の結果の発生とその違法を認識すべきにかかわらず不注意によつてこれを認識しないで行動をした心理状態をいう、といわれている。しかし、前記のように、本件のような権力行使は、その性質上当然に、被疑者・被告人の人権を侵害する結果を生ぜしめるのであるから、結果の発生についての故意の存在は論ずるまでもないし、違法の認識についても、違法の概念を前記のように把握するかぎり、権力行使の違法が若し認められるときは、その態様自体からして、公務員の主観的側面からこれをみれば、その原因が当然公務員の第三者に対する職務上の注意義務違反にあることを否定しえない場合が多いと考えられるから、多くの場合違法の態様・程度からして、少なくとも当該公務員の過失の存在を推定しうるであろう。

2控訴人の時効の抗弁について

国家賠償法四条が適用する民法七二四条の規定にいう「損害を知る」とは、単に損害が生じたことを知つただけでなく、それが違法行為によつて生じたことをも併せ知る意味であると解するのが相当である。本訴の請求は、被控訴人らが罪を犯したことがないのに、捜査および公訴の提起・追行を受け、よつて損害をこおむつたとして国に対してする損害賠償請求である。ところで当裁判所は、後に説明するように、前記刑事事件における起訴を不適法として被控訴人らにつきその時点以後に生じたと認められる損害の賠償の請求を肯定しようとする。この場合にあつては、刑訴法上の訴訟行為がなされたことにより損害が発生し、かつ、そのことを刑事訴訟の進行中に知つたとしても、当該刑事事件が現に係属して未だ確定しない間は、時効制度の趣旨から考えて、被害者において違法な行為により損害をこおむつたことを知つたものと解することは相当でない。被控訴人丙谷・同乙川および同丁沢に対する刑事原二審の無罪判決は、昭和二八年一二月二二日に宣告されたところ、これに対しては上告がなされなかつたので、上訴提起期間の末日である昭和二九年一月五日(火曜)の経過により確定し、被控訴人甲山A夫ら一七名に対する刑事再上告審が差戻後二審の無罪判決に対する上告を棄却した判決は、昭和三八年九月一二日に宣告された(この判決確定の日は、刑訴四一八条の規定によりみぎ宣告の日より後であることは明らかである。)。よつて被控訴人らは、上記無罪判決又は上告棄却の判決が確定した日に前記の各起訴による損害を確知したこととなるので、その日を起算点として起訴の日以後に継続的に発生した損害について、一律にその消滅時効期間三年を算定すべきものである。被控訴人丙谷ら三名による本訴は、昭和三一年一二月二〇日に福島地方裁判所(同裁判所同年(ワ)第二一六号)に提起されて、後に原裁判所(昭和三九年(ワ)第九六七九号)に移送され、その余の被控訴人らによる本訴は、昭和三九年五月一九日に原裁判所(昭和三九年(ワ)第四四四九号)に提起されたことは、記録上明らかである。してみれば本訴は、上記の各無罪判決確定の日(上告棄却の判決にあつては、確定の日でなく、その宣告のときを起算日と解するのが相当とすれば、前記の宣告の日)から三年内に提起されたのであつて、被控訴人らの本訴各請求権については、未だ時効が完成していない。

第二  公訴の提起・維持について、違法性と故意・過失の有無の検討

一  はじめにまず、本件の刑事事件において被告人とされた者に対する公訴の提起・維持(刑事事件の確定に至るまでの)についての違法性の有無を判断する。

さきに述べたように、この点の判断は、検察官が刑事事件の公判において公訴事実として具体的に陳述した犯罪事実(刑事一審における冒頭陳述およびその後に修正して陳述した事実)について、これを合理的な疑いを残さない程度に証明するに足る証拠が存在していたか否かを検討することによつてするわけである。ところで、右の公訴事実のうち、検察官主張の日時・場所において本件の列車顛覆事故が発生したこと、この事故が、人為的な線路破壊作業によるものであることは証拠上明白で、当事者間に争いがない。検察官が起訴の前後にわたつて入手したものとして、刑事事件の差戻後の第二審までに提出した数多くの資料および本件民事第一審において新らたに提出された一部の資料の全体を通じて、被控訴人らと右の列車顛覆事故の発生とを直接に結びつけることのできるものは、謀議の事実についても、実行行為について関係被告人の各自白をほかにしてはないのである。したがつて、各公訴事実の存否の判断は、右の各自白の信用性の判断如何によつて左右されるわけで、検察官はその信用性を肯定しうると判断した結果、本件の公訴提起・維持に踏み切つたのである。

そこで、右の各自白がそのように信用できるものであるかどうかが問題になるわけであるが、これらの自白には、それぞれについて、一方これを支え補強するものとして主張された資料があり、他方各犯罪事実の存在を直接間接に否定させ、右の自白の信用性を弱める方向に働く資料(アリバイに関する資料も含めて)が存在するので、各自白の信用性をそれ自体についてみると同時に、以上の各資料を対比綜合して検討することによつて、右自白の信用性を判断する。

二  八月一五日国鉄側謀議および実行行為についての庚崎自白、実行行為についての辛田自白について

1検察官の主張、その証拠  八月一五日国鉄側謀議および本件列車の顛覆を目的とする線路破壊の実行行為として検察官が主張する具体的事実は、さきに引用の原判決一九頁以下、集八頁の(6)および原判決二六頁以下、集一〇頁の(13)に記載されているとおりで、その主な証拠は、前者については庚崎自白、後者については、庚崎自白と、辛田自白とである。

2庚崎自白の信用性  庚崎自白には、その内容に具体的かつ写実的な部分があり、殊に本件のような重大犯罪に関するもので、しかも共犯者として他の数名をもあげているのであつて、このような事実を真の犯人でなく、自ら体験したのでなしに自白することができるであろうか、と一応は考えられる。その故か刑事第一審および同原二審判決はいずれも庚崎自白の信用性を肯定し、有罪判断の重要な証拠として採用した。しかし、庚崎自白の内容を他の証拠、殊に刑事差戻後の第二審判決のいう新証拠と対照(庚崎の自白調書についても、そのいわゆる新旧を対照)して仔細に検討すると、同判決および再上告審判決の多意意見も指摘しているように、そこには重要な事項について明らかに事実に反する点や、経験則からすると不合理・不自然と考えられる点があり、またのちに検討する戊野自白ほどのはげしさはないが、記憶ちがいなどがあると思われない事柄についてかなりに供述の変化がみられ、その信用性に顕著な疑いを懐かざるをえなくなるし、他方庚崎自白を補強するものとして主張された証拠も、これを各種の角度から検討すると、果してそう云える程の証拠力があるかどうか疑問を生じてくるのである。以下、これらの点について順次検討する。

(1) 庚崎自白の事実に反する点、不合理もしくは不自然と思われる点

(い) 一五日国鉄側謀議の席に、当日そこにいるはずのない壬岡と癸井がいたと云つていること  この点の庚崎自白の内容およびこれを庚崎自白の信用性を疑う理由の一つとする趣旨は、原判決七四一頁から七六二頁まで、集二五五頁一五行から二六三頁一四行まで(但し、原判決七五九頁四行から一〇行まで、集二六二頁一〇行から一三行までを除(く)。)に記載のとおりである(なお、再上告審判決P10の1の項も同旨)。

(ろ) 一五日国鉄謀議の場所  庚崎が一五日国鉄側謀議の行なわれたという国労福島支部事務所の状況は、原判決七六三頁から七七四頁六行、集二六三頁一五行から二六七頁一四行までに記載のとおりで、そのような謀議が行なわれる場所としてふさわしくないと考えられるし、当日の状況もそうであること。

(は) 集合出発点およびこれに続く往路の一部変更  この点について、後の自白では前の供述を明らかに変更した(その供述内容および変化は、原判決二〇七三頁から二〇七六頁六行まで、集七一〇頁四行から七一一頁九行までに記載のとおり。なお、原判決二〇六七頁、集七〇八頁の図面参照。)。前後の供述で集合出発地点として述べられた二地点は、刑事第一審及び原二審各検証調書の各記載によれば、いずれも庚崎の自宅のごく近所であり、自白によれば、前日の一五日の謀議の際に卯波から集合場所として指定されたという地点であり、また本件のような重大犯行に赴いたという出発地点およびこれに続く道順なのであるから、このような事項について記憶違いなどをするわけがないと考えられる(なお、再上告審判決P17の1の項も同旨。)。

(に) 永井川信号所南部踏切の通過

(イ) この踏切の一六日夜の状況この踏切は普段は無人の踏切であるが、その夜は虚空蔵様の祭礼の人通りを警戒するため、恒例によつて臨時の踏切番が置かれ、丑木S平、甲山T吉、酉谷U夫寅葉V雄がこれに当つた。この四人は、庚崎が国鉄に勤めていた当時の同僚や上司の人達で、庚崎の顔をよく知つていた。踏切を通る道路は、東は福島市大字郷の目地内を過ぎる国道方面に、北は信夫郡鳥川村または平田村方面に通じるが、鉄道が踏切の北約二百米に当時信号所を設けていたほか、踏切付近の鉄路および道路とも当時ほぼ一帯の水田に囲まれていた。また、鉄路敷きが土盛りによつて平地より高いので、道路も踏切前後では坂になつていて、踏切上からは周囲を一望に収めることのできる状況にあつた。ほぼ南から北へ走る鉄路は、信号所近いこの踏切では、西側から下り線用、上り線用、安全側線用と順次三本の線路から成つていた。当夜警手の休憩用のテントが張られたが、それは、踏切の東端の安全側線が踏切を越えてその南にまで延びている付近の同線路敷の上に設けたもので、踏切の道路とテント北端との間隔は二m位(酉谷U夫の供述による。丑木S平の供述によると、この間隔はもつとせまい。)で、テントの南側(金谷川寄り)の一部と東側には幕をおろしてあつたが、他の部分はおろしてなかつた。テントの南側のそばに電柱があつて、その晩特にこの電柱に六〇ワットの電灯をつけ、そのあかるさはテントの中から踏切を通る人の顔を見分けることができる程度であつた。この電灯は、警戒が解かれるまで引きつづいて点灯されていた。テントの中に合図灯二個を備え、列車が通過する際には二個とも持ち出して使用したが、その合間はテントの中においた(テントの位置、幕のあけてあつた状況について原判決一九六九頁、集六七五頁の図面参照)。

差戻後二審の夜間検証調書によると、夜間に右と同一の場所にテントを張り、電灯をつけた場合、庚崎自白の道順で行くと、踏切の手前(東方)約二六〇mの濁川の北側土手の上の地点で、この電灯が見えはじめ、踏切から約一六〇m手前まで行くと灯下になにかがあることがわかるようになる(ここではまだそれがテントであることはわからない)。踏切から約一三〇m手前の地点までくると、風が吹いているときには、テント脇の電灯の下に風でゆれているものが見え、それがテントであることがわかるようになる。五〇m手前まで近付くと、色合まではわからないがテン下ははつきり見え、外灯のあかりがそこまで及ぶようになる。テントの中から踏切を通行する者を識別するにたいした困難はない。

(ロ) 同踏切の通過に関する庚崎の供述  当夜の同踏切の状況が以上のようなものであつたとすると、庚崎らが一六日夜間自白の道順によつて同踏切を通つたとすれば、おそくも刑事一審検証調書第一見取図の(7)点(庚崎自白の道順による同踏切の一番手前の曲り角、同踏切まで約五四m)に至るまでの間に、そこに電灯がともされ、テントが張られて踏切の警戒が行なわれていることに気付いたはずであり、同踏切にさしかかつたときには、そのすぐ左側のテントの中にいる踏切番の人達に気付いたはずである。

しかるに庚崎は最初の自白以来、一貫して同踏切を通過したことを明確に述べていながら、そこで電灯をともし、テントを張つて踏切の警戒が行なわれていた事実を窺わせるものは何一つとして述べず、ただ同踏切を通過したという事実のみを述べていたが、起訴(一〇月一三日)後の10.19田島調書において、はじめてこの事実を述べた。その内容は、原判決一九六一頁二行、集六七二頁七行以下に全文引用記載されているとおりである。もつとも、踏切の臨時警戒が当夜の何時頃まで続けられていたかは、証拠上でも明らかでない。<証拠>によれば、一応当夜の午前二時までの予定であつたと認められるところ、<証拠>によると、一二時頃に人通りが少なくなつたので、線路班分区長との電話連絡の結果、警戒を解く時間を早めたということが事実のようである。実際に警戒を解くことになつて、テントを片付け、電球を外したのが丑木証言の記載のように一二時一〇分か一五分頃過ぎということになれば、庚崎自白によつて、庚崎らが〇時か〇時一〇分頃に踏切手前五町四三間二尺(換算六二四m強。刑事第一審検証調書による。)の地点を出発して急いで同踏切を通過した後の頃に当ることになろう。庚崎10.19田島調書の自白を支持する控訴人も、踏切警戒が続いていた間のことであることを前提とする。

(ハ) 庚崎の、同踏切通過に関する起訴前の右各供述の不自然、不合理

庚崎自白の中では、同人らが線路破壊作業現場に赴いた往復の途上において、踏切・信号所・駅・灯火のあるところなど人に見付かるおそれのある場所を通過した際には、人に姿を見られないようにこまかく神経を使つた趣旨の供述がなされている。その点の供述要旨、例えば次のとおり。

ⅰ 永井信号所附近  出発直後のことについて「永井川信号所の者にわからないように」通つた。

ⅱ 卯波K雄方の前  電気が明明とついていたので、人が起きているとまづいと思つて、急いで通りすぎた。

ⅲ 金谷川駅北踏切、金谷川駅附近往路も復路も、東側にさけて進んだ。

ⅳ 浅川踏切  往路、踏切の手前で警手の様子を見ると、警手は宿舎に入る後姿が見えたので、その踏切の線路上を通つた。

復路、踏切の警手詰所を避け、その西側を迂回して通つた。

ⅴ 往路列車に遭遇したとき  いずれも、線路のわきの土手におり、かがんで顔を線路の反対側に向けて列車をやり過した(後記(ち)参照)。

ⅵ 森永橋の袂で肥料汲みの農夫に会つたとき  顔を見られるとまづいと思つて下を向いていた。

永井信号所南部踏切のその夜の状況は、庚崎が以上のように気を使つて通つたと述べている他の場所よりも、もつとはるかに危険な場所であつた。そこには、踏切の道路を照らす目的で電灯がともされており、踏切の通行人の顔を見分けることのできる程の近くに四人もの番人がおり、この人達はみんな庚崎の顔見知りの人達であつた。前記のように庚崎は、おそくも刑事一審検証調書第一見取図の(7)点附近に至るまでの間に踏切警戒の電灯・テント、したがつてそこに踏切番として庚崎と顔見知りの人達がいることに気付かないはずはないのである。そうすると、庚崎が、この踏切よりはるかに人に見付かる危険度がすくないと思われる他の場所では、いずれも細心の注意をはらつたとして、危険を避けるためにとつた具体的な行動を供述しているのに、この踏切の通過については起訴前数回もあつた供述の機会において、そのようなことを何も述べず、何事もなくそこを通過したように供述しているのは、一体どういうわけであろうか。この疑問を解くには、庚崎が当夜犯行の途上同踏切を通過したというのは嘘なのではないか、と考えるほかにないように思われる。庚崎が現実に犯行に赴いたとしたらなば、庚崎らは、庚崎自ら云うように、人に見つかつては大変だから別の道を通つたであろう。森永橋からも、前記の点からも、庚崎が帰路森永橋に至るまでに通つたと述べている道路に出て犯行現場に行くことがきるのである。出発直後の個所で犯行現場と予定した地点から遠く離れているため、同踏切通過の事実を知られても、後日そのために疑いをかけられるおそれはあるまい、と考えて庚崎はあまり警戒をしなかつたのであろう、という考え方はこの場合は当らない。庚崎は犯行現場と予定したという地点から、同踏切と同様に、またはそれ以上に離れている個所についても、前記のように、人に見付かる危険をさける行動をした旨の供述をしているし、この踏切についても「臨時踏切番が出来ているという事に早くから気付いておりましたならば、私共は見つかつては大変ですから別な道を通つたと思います」と供述しているのである。また、酉谷U夫も、庚崎は臨時踏切がいることを当然知つているから、警戒の者にわかるような道を通るはずがないと思う、と述べている。のみならず、踏切の警戒に当つた四人は庚崎の顔見知りの者で、庚崎もこれらの人達の中には顔見知りの人がいるであろうことを予知できたと思われるから、それらの人達に、庚崎が三人連れで、深夜に自宅と反対の方向に行く姿を目撃されては、後日疑惑のもとになる、と当然考えるであろう。庚崎らが真実そこを通過したとしたら、当然に極度の警戒心を懐いたはずである。

(ニ) 庚崎10.19田島調書の供述の事実に合致しない点  この供述は、検察官が一〇月一四日に丑木S平を、一〇月一七日に同人と甲山T吉・酉谷U夫および寅葉V雄を取り調べてえた知識にもとづいて庚崎に示唆をあたえた結果によるものであろう。この人々の供述調書にはまだ当夜踏切に前記の電灯がともされていた事実はあらわれていないが、当夜そこで四人の者が臨時踏切警戒に当つたこと、およびそこに張られたテントの位置などの点が明確にされている。

庚崎10.19田島調書には、踏切に来て踏切番のテントが張つてあるのを見てハツと思つたというだけで、電灯がつけられていたかどうかの点はもとより、テントが張つてあつた位置などの点については明確な記載がなされていない。電灯の点は、まだ検察官の知識の中になくて、この点の示唆をあたえることができなかつたのかもしれないが、テントが踏切の右側にあつたのか左側にあつたのか、線路の向う側かこちら側か、踏切からどの位離れて張られていたのかなどの重要な点については、検察官が当然たしかめたものと思われるのに全く記載がない。庚崎が真実この踏切を通つて犯行に赴いたものとすれば、テントを見てハツと思つたというのであるから、テントの位置などの点は深くその印象に残つているはずである。

のみならず、庚崎のこの供述調書の記載内容を仔細に検討すると、庚崎の供述に事実に合致しないと思われる点がある。すなわち、この調書の中に「私はその晩が虚空蔵様の宵祭だと云う事は知つておりましたがその踏切に来るまで踏切番が出来ておると云う事を気付かず、テントを張つてあるのを見てハツと思いました。然し誰も踏切には居りませんし人通りもなかつたので、急ぎ足でその踏切を渡つたのです(中略)。私達が踏切を通る頃には人通りはなかつたのであります。それで踏切の警戒に当つた人達はテントの中に入つていたものと思います。尤も踏切警戒の人達は汽車の通る度に出る丈で、汽車が通らない時にはテントの中で休んで居るのです。踏切に張つてあつたテントは草色のテントでその晩暗かつたものですから、遠くからはそのテントが見えなかつたのであります」との記載部分がある。これによると、ⅰ その夜は暗かつたから踏切に近寄るまでテントに気付かなかつたというのである。しかし、前記のように、その夜は暗くても踏切には遮えぎるものがなく、外灯がともされていて踏切のはるかに手前から電灯はもとより、その下のテントを認識することができたのである。ⅱ 前記の供述によると、庚崎らが、踏切警戒の人達がいるに拘らず、あえてそこを渡つた理由について、そのときは丁度汽車の通らない時であつたため、踏切番が踏切に出ておらず、テントの中で休んでおり、そのため、庚崎の方からは踏切番の姿が見えず、したがつて踏切番の方からも自分達の姿を見付けられるおそれがないと判断して、その機会を利用して急いで踏切を渡つた、と述べている。前記の文章を読めば、当然庚崎の顔見知りの人達が踏切警戒に当つていることが予知でき、これらの人達に姿を見られると極めて危険であるに拘らず、あえてそこを通過した理由として述べているところは、右のようにしか読み取りようがない。しかし、前記のように、テントは、踏切の側も、線路の側も開けてあつて、踏切からわずか二m足らずの地点に張つてあり、そのすぐ側に六〇ワツトの電灯がともされ、テントの中には二個の合図灯もあり、そこで将棋を指すことができる程あかるかつたし、テントの中から通行人の顔を見分けることができたのである。庚崎らが踏切にさしかかつた際に、すぐその左手の目と鼻の間にいる四人の人々に気付かないわけがないし、急ぎ足で通過すれば踏切の人々に見付けられるおそれがない、と判断される状況でもなかつたのである。

(ホ) 以上、庚崎自白の同踏切通過に関する供述は、10.19田島調書のそれも、それ以前のものも、いずれも、庚崎が真実そこを通過した際の体験を語つているものとしては、理解し難い不合理ないし事実に反する点を含んでいるといわざるをえないのである。

(ほ) 遊間調査  <証拠>によるとつぎのような事実が認められる。福島保線区技術係の寅葉A夫は、戌沢B郎(同保線区金谷川線路分区長)、亥野C介(永井川線路班工手)らの応援をえて、八月一六日午前八時から一七日午前八時まで(一七日午前四時からは亥野のみ)金谷川福島間の東京起点二六七k六一一mの地点の附近にテントを張り、東京起点二六七k四〇〇mから二六七k六〇〇mの間の軌条について拘制量調査(温度の差による軌条の伸縮の度合の調査)、遊間調査(温度の差による軌条継目部の間隔の差の調査)および列車運行調査(通過列車の時刻、列車名、速度、機関車の型式等の調査)に従事した。拘制量および遊間調査は毎時〇分ごとに行い、所要時間は平均一二、三分、列車運行調査は列車通過の都度行なつた。テントは草色で線路東側の土堤の傾斜面に線路から二m半か三mくらい低い地点に張り、その張り方は線路と併行に南北に細長い矩形をなすように、南北両側の各中央に高さ地上七尺位の中柱(一番高い柱)を立て、出入口として南側の一方だけを開けておいた。そしてテントの頂点は、線路東側のホーメーション(線路上の軌条のわきにある通路)とほぼ水平の高さで、そこから線路のホーメーション東縁まで水平に一三尺あり、右の歩道上からはテントの全貌が、西側歩道上からは、テントの頂点から二、三尺の辺まで見えるという状況であつた。テント内に合図灯と呼ぶガス灯二個をそなえ、拘制量および遊間調査の際は二個とも持ち出して使用し、列車運行調査の際は一個を持ち出して使用し、調査の合間にはテント内に入れて置いた。また同人らは、その際テントなどを運ぶために使用した猫車を軌条から外ずして線路上の軌条西側のホーメーションに置いたので、西側歩道を歩行する者は注意しなければそれに突き当るという状況になつていた。当夜同地点を通過した列車で関係のあるものの時刻をあげると、下り一八一貨物列車が一六日二四時〇分、上り四〇二客車が一七日午前〇時二七分、上り一五二貨物列車が一七日午前〇時四二分である。

庚崎自白によると、庚崎ら三名は当夜往路において右地点の線路上を通過したことになつている。線路上の軌条東側ホーメーションを通つたか西側のそれを通つたか、それともまた軌条の中間を通つたか明瞭には述べていないが、庚崎10.19田島調書には「多分右側を通つたと思います。」ということになつている。仮りに庚崎らが、寅葉ら調査班の人達がテント内に休んでいる間にそこを通過し、したがつてこれらの人達に見とがめられることがなかつたとしても、庚崎らは、軌条西側(庚崎のいう右側)のホーメーションを通つたとすれば、そこに置いてあつた猫車に気づいたはずであろうし、軌条の中間又は東側ホーメーションを通つたとしても、テントないしは合図灯に気づくはずと思われるのに、庚崎自白にはこの点についてなんら触れたところがない(なお、再上告審判決P17の3の項も同旨。)。

(へ) 線路破壊作業  (i) 軌条継目板について、実際には外軌の二個所のそれ(四枚)が人為的に取り外されていることが証拠上明らかであるのに、庚崎自白において取り外したとされているのは一個所のみで、少なくとも庚崎が知つているのは一個所にすぎない。(ⅱ) また、庚崎自白によると、庚崎は線路工事の唯一の専門家として実行行為担当者のなかに加えられたとされているのに、最も困難な作業である継目板取り外しの作業に従事せず、見張りや犬釘チョックの抜き取りなどの作業のみをしたといい、(ⅲ) 更に、継目板のボルトナットの緩解に成功する確率の極めて少ないと認められる本件の小さなスパナ(検甲第二号、刑事事件における証一号の五)だけで、全くのしろうとである卯波らがわずか二、三〇分の間に継目板の取外しに成功したと云つている(再上告審判決P12以下の2の項及びP18の6、7の項も同旨)。

(と) 帰路の一部変更  庚崎自白は線路破壊作業現場からの帰路の一部、すなわち金谷川のトンネル(平石隧道)から割山を過ぎた地点までの道順についても明らかな変化がある。すなわち、最初の自白調書の9.19甲川調書では、原判決二〇三〇頁、集六九五頁末行から六九六頁二行までに引用されているとおりに供述し、この供述は原判決(二〇三〇頁から二〇五九頁六行まで、集六九五頁六行から七〇五頁一七行まで)が詳細に論証するように、すくなくともその間鉄道線路上を通行したという趣旨ではないと考えられるのに、9.21甲川調書以降はすべてその間線路上を通つた、ということになつている。(なお原判決二〇二七頁、集六九五頁の図面と、その説明についての原判決二〇二六頁三行から一二行まで、集六九四頁六行から一一行までを参照)。刑事第一審検証調書及び同調書添付の第一見取図によると、その間の距離は二Km以上もあることが明らかで、その間を線路上を通つたか、そうでなく線路に沿つた山道を通つたかについて記憶違いをするなどということは通常考えられないし、その時刻頃は既に本件事故が発生した後のことであるから、救援の人に出会い怪しまれるおそれのある線路上を通つた、と変更したのは、かえつて不自然のように思われるのである。

(ち) 遭遇列車  庚崎自白によると、遭遇列車は、往路の線路上において、(イ)上り貨物、(ロ)下り客車、(ハ)下り機関車一輛、(ニ)上り客車の順であるとし、帰路の道路上において、(ホ)通過音によつて気付いたてんぷくすべき上り客車である、と述べた。

ところで、当日午前〇時以後に庚崎自白の徒歩往復時刻に関係地点を通過した汽車は、つぎのとおりである。

関係列車運行の実時刻表

方向

列車番号

種別

通過又は着発時刻

備考

金谷川    松川

上り

四〇二

客・急

〇・三四→〇・三九30

着・発の文字を欠く数字は、通過時刻を示す

上り

一五二

〇・五二30→〇・五九着

一・〇五発

〇・五二30は、〇時五二分三〇秒

下り

一一五

一・〇七←一・〇三

下り

六八一

単機

着一・二〇

発一・五六←一・一二

下り

四〇一

客・急

一・三五30←一・二九30

松川三分延(甲25P229)

上り

一一二

客・準急

一・五四30←二・〇〇

松川四分延(甲25P230)

上り

四一二

三・〇六→

てんぷく

(ⅰ) 庚崎のいう(イ)の列車は、その言葉のとおりとすれば、前表の時間帯における貨物列車は、一本しかないので、上り一五二列車に当るとしか考えられない。控訴人もそのことを認めた前提において、「検事が刑事事件第一審検証の際指示した地点の一五二列車通過は、午前〇時五五分頃となり、庚崎が最初の出発地点を一二時に出発したことから判断すると、庚崎らが右地点で右列車に追越されたことは疑問がある。」と自認する。その趣旨は、みぎ検証調書と庚崎自白とをもつてすれば、庚崎自白の出発点から七、九二九m余を隔てた地点(検証の22点)までを、おそくとも五五分(分速一四四m)で歩行しえたことになつて、不合理ということであろう。庚崎が真実列車に逢つたとしても、後にその地点に臨まないで出会い地点を述べるとき、正確な地点を記憶していて、かつ言葉で表現することは、むずかしかろう。そうとしても、庚崎自白によれば、庚崎らは、平石隧道北口でそれまで歩いて来た線路を離れて、金谷川駅をはずれた南の地点で再び線路に戻つた、という。その地点は、前記検証では、21点であり、検証調書による同地点の説明は、庚崎自白にいう線路立入点とも符合するが、その地点さえも、出発点から七、〇一八m余を隔てている。ゆえに、庚崎らが再び線路上に立ち戻つたという右21点付近で上り一五二列車に追い越されたと仮定しても、そこでも分速一二七mを下らない歩行速度となつて、矢張り不合理であることに変りがない。しかも、貨物列車は、前記のとおりこの一本しか動いていないうえに、9.23山本調書からは、それが通過した直後の船橋踏切の警手の動静を確めたうえで歩行を続けた旨を述べるとともに、10.1山本調書からは、貨物列車のつぎに迎えたのが下りの客車である旨、前掲の表に見られる順序としてそうならざるを得ないような事実に合う正確な供述をしていることからすれば、庚崎らが往路の最初に逢つたという貨物列車についての記憶が、他の列車との思い違いであるとも考えられない。これを要するに、庚崎らが往路の線路上で貨物列車に追い越されたと云い、その地点までを異常な速度で歩行したと云う供述は、その真実性に疑いを生じ、この疑いを拭うことのできる資料は、まず見当らない。

(ⅱ) つぎに、現に運転された前記の下り客車二本と、10.1山本調書以後の庚崎自白中の下り客車一本との関係について考えよう。みぎ自白では、前記のとおり下り客車が前記(イ)の貨物列車の後で、前記(ハ)の下り機関車の前に現われたと云い、このことと現実に運転された下り客車二本の通過時刻の隔りとから考えると、庚崎自白中の下り客車というのは、下り一一五客車と考えるべきであろうし、下り四〇一急行客車については、述べられていないことになる。このように、下り四〇一客車についての供述が落ちていると見れば、その前後の列車四本の上り・下りと、客・貨等の種別ならびに運行順序自体の現実と、供述とが符合して合理的である。つまり、二つの下り客車間に記憶の混同はないことになるが、そうなると、下り四〇一客車についての不陳述は、記憶の喪失によると云えるかが問題になろう。

庚崎自白が事実とすれば、庚崎らは、前記(ハ)のつぎに下り四〇一急行客車を迎えざるを得なかつたわけである。再上告審判決(一七頁の4の項)も、下り一五二貨物との遭遇に関する供述の不自然をついたうえに、下り四〇一旅客列車の「運行時刻に照し、庚崎らが現場付近を松川の方に向つて歩いているときに行き違う関係になる」としている。同列車は、松川駅(東京基点二五九k五三〇m)を一時二九分三〇秒に、金谷川駅(同上二六三k九〇〇m)を同三五分三〇秒に各通過した。ゆえに同列車は、前記検証調書の30点(同上二六〇k一七一m八〇)の庚崎らが辛田らと落ち合つたと云う地点を一時三〇分過頃に、同上29点(同上二六〇k八八六m八〇)の石合踏切を同三一分過ぎに通過したと推認される。一方庚崎自白によると、庚崎らは、前同28点(前同二六一k二五九m四〇)よりやや福島寄りの前同27点(前同二六一k四〇〇m)で下り六八一単機に出会つたと云い、同機関車の同所通過時刻は、一時一六分頃である。そうしてまた、同自白では、27点から28点・29点を経て、30点で辛田らを加えて、31点に引返して二時近くに上り一一二客車を迎えたもので、その間28点と30点とで各三分佇立したと云うのであるが、<証拠>によれば、同列車の31点通過時刻は、一時五七分頃である。以上の27点・31点における庚崎ら通過時刻と、28点・30点の休憩と27点・29点・30点・31点間の距離(27点から28点・29点・30点に至り、折返し31点、28点に至る各点間の距離は、刑事一審検証調書によると、順次一四〇m六〇、三七二m六〇、七一五m、八二八m二〇、二五九m四〇である。)とから庚崎らが29点を通過した時刻と、30点に到着した時刻を推定すると、前者は一時二八分頃、後者は一時四〇分頃となる。したがつて庚崎らは、29点から30点へ歩行する中間の地点で、30点を一時三〇分頃に、29点を一時三一分頃に通過した下り四〇一急行客車とすれ違うことになるのである。

庚崎の供述する現場への往復時刻からすると、その時間帯に現場付近を通過した汽車六本のうちの三本について9.19甲川調書以来の供述があり、他の二本について10.1山本および10.2唐松各調書で追加の供述がなされた。追加されたうちの下り六八一単機は、それが列車でない単行の回送機関車であり、かつ出会い地点が現場手前僅かに一四〇mであつたことから印象に残つていたために想起して追加供述されたもの考えることにしよう。そうならば、庚崎らが一応目的地点に到達したのち、辛田らをいわば出迎えるべく同人らの姿を前方線路上に探し求めて南進し、結局同人らと会うほぼ直前ともいえる時刻に行き違うこととなる下り四〇一急行客車もまた、その前の六八一単機と、庚崎らが辛田らに会つてから現場にとつて返す途中すれ違つたと述べられる上り一一二客車と同様に、印象に残るものとして想起しての追加供述に値いしなかつたものであろうか。六本もの汽車のうち一本ぐらいは忘れてもおかしくないという一般論は、鉄道経験者の庚崎の場合、殊に右説明のような事情のもとでの場合にあてはまらないと考えて、これを述べていないことに疑いを差し挾むことができるのではあるまいか。かくして、下り四〇一急行客車とのすれ違いを述べていないこともまた、庚崎自白の真実性に対する疑いを生じさせることになる。

(り) 東芝側の実行行為担当者としての丑木・辛田の特定  庚崎が丑木と辛田とを識別特定するに至つた経過は、原判決二六六五頁末行から二六七四頁七行まで、集九一一頁一〇行から九一四頁一一行までに引用記載されている庚崎自白のとおりである。結局取調官から東芝松川労組員の写真(検乙27またはこれと原板を同じくする写真)を見せられて、その中から丑木と辛田をゆびさしたことになつているが、そこに至るまでにはかなりの曲折が見られる。すなわち、最初の自白をした9.19甲川調書では、松川からの二人が東芝関係の者であることをうかがわせるものは述べられておらず、かえつてその中の一人は「元機関区に出て居る乙谷とか丙沢とかと卯波さんに聞えておりました。」といつて、国鉄関係の者であるような供述をしていたが、翌日の9.20甲川調書では「松川の方から来た二名は卯波さんに聞えた様な様な気がしますが、全く忘れてしまい。」、「松川では国鉄労組と取引の数の多いのは芝浦だから、スパナの盗つた素人さから見てどうもおかしい感じを持つております。」といつて、スパナを盗んできた(普通鉄道工事には使わないスパナを持ち出してきた。)しろうとさと国鉄労組と取引の数が多いという理由で東芝関係者が疑わしいということになり、また、二人の人相などの供述にも変化がある(原判決二六九四頁から二六九五頁三行まで、集九二〇頁八行から一四行までに記載のとおり)。のみならず、庚崎のいうその夜の暗さ(原判決二七二〇頁五行から二七二四頁三行まで、集九二九頁から九三〇頁九行までに記載のとおり)の中で、はじめて会つた二人を後日に至つて写真を見せられただけで識別できたというのも不合理といわざるを得ないのである(この末段につき、再上告審判決P18の5の項も同旨)。

(2) 庚崎自白を補強するものとして主張された資料について

(い) 寅葉自認  この点に関する寅葉自認といわれるものの内容およびそれが庚崎自白の補強となると主張された趣旨は、原判決七八〇頁九行から七八一頁一〇行まで、集二六九頁末行から二七〇頁六行までに記載されているとおりである。しかし、当時甲山は国労福島支部福島分会執行委員長として毎日同支部事務所に顔を見せ、卯波(同支部執行委員)・未山(同支部書記)は同支部事務所に常勤していたし、辰口は七月四日国鉄を解雇されたが、それまで国労福島支部分会の役員をしており、その後も毎日のように国労福島支部事務所に出入していた。そして庚崎も七月四日国鉄を解雇されたが、組合幹部から毎日組合事務所に出て来るように指示されて、毎日のように同支部事務所に顔を出していたのである。したがつて、甲山・卯波・未山・辰口らが同支部事務所内で話をしているところに庚崎が来て、これに参加するというような情景は、日常の出来事として当然あり得ることで、寅葉が一五日のこととしてそのような情景があつたと述べても、特にそれが一五日謀議に関する庚崎自白のそれほど強力な補強となるとは考えられない。問題は、その会合の席でなされた会話の内容であるが、寅葉自認は、この点について何もふれていないのである。

(ろ) 卯波・辰口・甲山各供述  この点に関する卯波供述の経過内容およびそれが庚崎自白の補強となるとされた趣旨は、原判決七七四頁八行から七七六頁五行まで、集二六七頁一六行から二六八頁八行までに記載されているとおりである。しかし、卯波がこのように供述するように至つたについては、原判決七七六頁六行から七七七頁三行、集二六八頁九行から一三行までに判示するように、卯波の供述の変遷そのもののほかに、卯波10.13山本調書に、「一五日支部事務所において話をしていた者の中に壬岡L郎・癸井D作等が加わつておつたか、何うかと言う事についてははつきり記憶がありません。従つて居たとも居なかつたとも言われません。」との旨の供述記載のなされてあること(このことの意味するところについては、前出第二の二2(1)(い)の項参照)からも、取調官の誘導に従つたままのことであると考えられないではない。しかも、その供述の内容とするところは、前項で述べたように、甲山および未山は毎日国労福島支部事務所に出勤しており、辰口および庚崎も毎日のようにそこに出入りしていたのであつて、卯波は同支部の役員としてこれらの事実を熟知していたわけであるから、記憶がたしかでなければ、その日もこれらの人々が同支部事務所にいたであろうと考えるのは、きわめて自然ななり行きと言うことができるし、そもそもこれらの者が同支部事務所で顔を合わせること自体も日常の出来事として当然ありうることなのである。以上を考え併わせると、卯波供述も庚崎自白の補強と言える程のものではないと考えるべきであろう。

次に、辰口のこの点に関する供述は、八月一日国労福島支部事務所に出勤すると、そこに卯波・未山・甲山らがいた、という趣旨のもの、甲山のそれは、同人が八月一三日以降一六日まで毎日組合事務所に朝八時半頃から午後六時頃まで出勤していた、という趣旨のものである。辰口ははじめ八月一五日国労福島支部事務所に行なつた事実をのべず、当日は勤務先の東北文化商事株式会社の仕事をし、支部事務所へは立ち寄らなかつたと供述していた。10.4丁野調書から、その日午後二時か三時頃国労福島支部事務所に行くと、未山・卯波らがいたというようになつたが、そこに甲山もいたことはのべず(10.9丁野調書10.11丁野調書も同様。ただし、組合事務所に行つた時刻は、午後一時から二時頃までの間、午前一一時頃と順次くり上つている。)、甲山もいたと述べたのは、前記10.12甲山調書だけであつて、卯波供述の変遷と似たような経過を示している。また甲山も、10.2午下調書で供述を変更し、一四日・一五日も朝から国労福島支部事務所に出勤したとのべたのは思違いで、一四日は朝から共産党事務所(日共福島地区委員会事務所、福島市<以下省略>所在)で党務に従事し、その夜は右事務所に泊り、一五日は同様同事務所で執務し、そこで開かれた会議などに出席した、と供述し、更に10.11戊原調書では、一四日は共産党事務所で執務したが、その中途で午前一一時頃国労福島支部事務所に顔を出し、同一二時頃までには党事務所に帰つた、一五日午前中は党事務所で党務をとつており、国労福島支部事務所には顔を出していない、と供述している。そして、<証拠>を綜合すると、甲山が一四日および一五日の両日とも国労福島支部事務所に出勤していたというのは間違いで、一五日正午頃国労事務所にいたかどうかは別として、両日とも少なくとも、その大部分の時間を共産党事務所で費した、と見るのがたしかな事実らしいのである。以上両名の供述の経過とその内容および甲山・辰口・卯波・未山らが日常国労福島支部事務所に出勤し、又は出入していた事実を考え併わせると、甲山・辰口の前記供述も、卯波供述について述べたのと同様の理由で、特に庚崎自白の補強となると見るべき性質のものではないと言わざるをえないのである。

(は) 庚崎予言  いわゆる庚崎予言というのは、八月一六日夜一一時頃折から祭礼の行なわれていた福島市の満願寺本堂の前で、庚崎が友人の己崎D作・庚田E平の二人に会い、立話しをしていた際に、「今晩あたり列車の脱線があるのではないかな。」と不用意に発言した、というものである。もし庚崎が本当に、その日その時刻に右のように発言をしたとすれば、このような発言内容は、本件列車顛覆の真犯人もしくはその共犯者以外の者が言えるわけのものではないから、庚崎が真犯人ではないかと疑う有力な資料となると言つて差支えないであろう。そしてこの庚崎予言は庚崎自白の端緒となり、検察官によつて、庚崎自白の信用性を保証する有力な根拠として主張されてきた。しかし庚崎予言とされるものが、そのように庚崎自白を保証するに足るものであるかについては多くの疑点があつて、たやすくこれを肯定することができないのである。すなわち、

1 庚田E平および己崎D作のはじめの供述では、いわゆる庚崎予言の言葉の形式は、原判決二三三〇頁から二三三四頁三行まで、集七九六頁六行から七九七頁一五行までに記載のとおり、いずれも予言としてではなく、過去の事実の報告の形になつている

2 庚田・己崎が庚崎からいわゆる庚崎予言を聞いたとき、および翌朝本件列車顛覆事故の発生を知つたときに受けた感じとして述べているところについては、原判決二三九〇頁四行から二四〇六頁九行まで、集八一五頁一一行から八二二頁四行までに記載のとおり、同人らはいずれもその際庚崎の言葉を特に異常なものとは感ぜず、さして気に止めてもいなかつた。

3 庚田・己崎は両名とも刑事一審証人として尋問されたときには、原判決二三一七頁一〇行から二三二〇頁七行まで、集七九二頁二行から七九三頁一行までに記載のとおり、庚崎から列車脱線の話を聞いたのは、昼か夜かもわからず、日の点もはつきりしなかつたのに取調官から無理に一六日夜聞いたことにさせられた、との趣旨の供述をしており、前記1・2の点を考え併わせると、そのような疑いも生じてくる。

4 庚崎は、刑事一審になつてから、庚田・己崎に列車脱線の話しをしたのは、八月一七日昼のことであると主張した(原判決二三一五頁一行から九行まで、および二四五二頁三行から二四五四頁末行まで、集七九一頁一行から五行まで、および八三七頁三行から八三八頁五行までに記載のとおり)。もしも三人が一七日に一緒になる機会があつたとすれば、そこで本件列車顛覆事故のことが話題になる可能性は十分にあるから、右の庚崎の主張およびさきに記した庚田・己崎の刑事一審証言がその限度で裏付けられるに反し、三人が一七日に一緒になる機会がなかつたということになると、右の三人の言い分は全く根拠のないものになる。そこで三人の一七日の行動に関する供述を見ると、原判決の次の記載のとおりである。

庚崎の主張 原判決二三一五頁二行まで、集七九一頁一行から五行まで、原判決二四五二頁三行から二四五四頁まで、集八三七頁三行から八三八頁五行まで。原判決二四六三頁五行から末行まで、集八四二頁一〇行から一三行まで

庚田の供述 原判決二四五五頁から二四五六頁四行まで、集八三八頁六行から一七行まで。原判決二四六四頁一行から末行まで、集八四二頁一四行から八四三頁一行まで。原判決二四六八頁一行から七行まで、集八四四頁一行から四行まで

己崎の供述 原判決二四五六頁五行から二四五七頁一行まで、集八三八頁末行から八三九頁五行まで。原判決二四七一頁八行から二四七四頁六行まで、集八四五頁六行から八四六頁五行まで。

以上を要約すると、庚崎の言い分は、一七日正午前後に虚空蔵様附近の己崎がアイスキヤンデー売りをしている場所で、庚田にも己崎にも列車脱線の話しをした、というのであり、庚田の供述は、一七日は正午少し前に起床して昼食をした後虚空蔵様の兄が出している店の店終いを手伝いに行き、虚空蔵様の入口の所で午後一時頃に庚崎に会つた、そして己崎の店でしばらく休んでいるとき、姉に言われて手伝いに行き、店を解体してリヤカーに積んで帰つた、というもの、己崎のそれは、一七日は午前八時過ぎに虚空蔵様にキヤンデーの商いに行つた、そこで九時頃庚崎に会つた、庚崎は店の椅子に腰かけていた、十一時半頃昼食のため母の実家に行き、午後〇時半頃また母の店の手伝いに行つた、午後一時頃庚田が来て暫らく休んでいるところに、庚田の姉が来て庚田を連れて行つた、庚田は午後二時三〇分頃店をしまつて帰り、自分も午後五時頃母と一緒に店をしまつて帰つた、というのである。

ところで、己崎母子がキヤンデー売りをした場所についての以下の各供述記載<証拠>は、区々であつて、必ずしもはつきりしない。そのゆえんは、<証拠>に見られるように、己崎母子が、一六日午後から夜おそくまでと、翌一七日午前・午後の昼間に祭りの人出をねらつて、参道に通ずる路上に四本足のついた箱を置いてキヤンデー売りに立つたものであり、そのためにキヤンデーを一回に五〇本から一〇〇本ぐらいづつ、売れるに従つて数回に製造業者から仕入れて売つていたという業態の然らしめたところであり、かつ、<証拠>に見られるように、己崎母子がキヤンデーの売れそうな場所を求めて、場所を変えたためであつたのかと考えられる。しかし<証拠>によると、己崎母子は、一七日の昼間に関する限り、旧参道入口の旗立石柱付近の路上東側(そこは原判決二四六〇頁の二、集八四一頁の図面の辛岡F吉方に近い。<証拠>によると、原判決の右図面の辛岡F吉方の隣家横の道が旧参道であり、その入口に旗立石柱がある。)にほぼ定着していたようであり、その向側路上には庚田の兄庚田G夫が飴を売る玉屋という店が設けられていたものと認められる。庚崎は、刑事第一審検証に立会したときには、一六日午後に己崎らのいた場所としては、右地点より約三〇間ほど寺に近い道角の地点を指示したが、原二審検証に立会したときに、一六日午後五時頃から己崎母子は右場所にいたが、その後夜になつて旗立石柱付近に移動したと述べた。その旗立柱近の路上は、前引用の原判決添付図面に見えるとおり、庚崎が一七日昼頃庚田および己崎と会つたという「上の町の辛岡F吉さんの家の前」(原判決二四五二頁三行から二四五四頁まで、集八三七頁三行から八三八頁五行まで)に当ることがわかるし、同時にまた庚田のいう「虚空蔵様の入口の所」(原判決二四五五頁九行、集八三八頁一三行)と表現してもよい地点である。以上の点を念頭に入れて、三人の一七日の行動に関する各主張供述を綜合すると、三人が一七日昼過ぎ頃辛岡F吉方前の道路で一緒になつた蓋然性はきわめて高いと認めざるをえないのである。なお<証拠>によると、三人は当時親しい遊び友達で、一六日および一七日は、折柄の祭礼について、己崎は母のキヤンデー売の店を手伝い、庚田は兄の店を手伝つており、庚崎もこれらの店とあまり遠くない虚空蔵様の境内又はその附近にいて己崎のキヤンデー売りの店を手伝つたりしたこともある事実が認められるから、特に、いつと言わなくとも三人が一緒になつたことのあることは容易に推測しうるのである。

5 更に、庚崎予言について最初の供述をした庚田は、一六日夜のこととしてではあるが、はじめ、庚崎がいわゆる予言をした場所について「己崎がキヤンデー売りをしていた店の前」と供述し、その後「虚空蔵様の門を入つたお寺の前」と変つた。右の庚田の最初の供述は、少なくとも場所に関しては庚崎の主張(原判決二三一五頁、集七九一頁)と一致するのであつて、庚崎のこの主張は右の庚田の供述調書が法廷に顕出される前になされていることおよび右四に認定の事情を考え併わせると、庚田や己崎の前記3の供述内容が真実なのではないか、との疑いがますます深められるのである。

以上庚崎予言について、いくつかの疑点を指摘したが、庚崎予言は要するに庚崎の片言隻句にすぎず、その内容も、それが行なわれた時も場所もはつきりとつかみ難いのであるから、これに庚崎自白の保障の趣旨で多くを期待することはできないのである。

控訴人は壬井H雄・癸木I郎ら差戻二審以後になつてはじめて登場した証人らの供述に関する原判決の判断(二五〇三頁以下、集八五五頁以下)を攻撃しており(控訴人の当審第二回準備書面P63)、原判決の右判断には独断にわたると思われる点がないとは言えないようである。しかし、原判決の言わんとするところは結局において、長い年月の経過の間には記憶の変容・錯覚などの生じ易いことを指摘して、右証言等をそのまま信用することの危険である所以を説明しているものと解せられるのであつて、この趣旨において右証言等をそのまま信用しえないとする見解には、当裁判所もまたこれに同調せざるをえない。のみならず、庚崎予言の実体については、刑事第一審以来はげしく争われていたにかかわらず、検察官が刑事原第一、二審において証拠としてこれらの証人を申請しなかつた事実からすると、起訴に当つて、庚崎予言に関する証拠としてこれを予想しえなかつたと考えられるから、起訴の当不当を問題としている本件においてこれらの証言を重視する要はないのである。

(に) 壬岡J夫供述  この点に関する壬岡J夫供述の要旨およびそれが庚崎自白の信用性を支えるものとして主張された趣旨は、原判決二五五九頁から二五六〇頁二行まで、集八七四頁一一行から末行までに記載のとおりであろう。壬岡J夫については、捜査段階において、9.22丑葉、9.26山本、10.18寅波の各調書が作成されており、そこには八月一七日早朝福島市内に肥料汲みに出かけ、その途中森永橋を渡つたこと、その際森永橋袂のわきの川下(橋に向つて右手)の土手の上に三名の青年が腰をおろしているのを見かけ不思議に思つた、との趣旨の供述記載がある。しかし、(イ)同人は、刑事第一審一四回公判において証人として尋問された際には、原判決二五七六頁七行から二五八二頁四行まで、集八八〇頁一三行から八八三頁四行までに記載のとおり供述し、これによると、壬岡が肥料汲みに出かけ森永橋の袂で人影を見たという日時の点も、その人数も、その人が青年であつたかどうかの点も、はつきりした記憶に基くものではないように思われる。(ロ)壬岡J夫が三人を見たという時刻(午前四時半から五時頃)の明暗度については、壬岡は9.26山本調書において「二、三尺の処へ近付かなければ、人の顔は良く判らない程度の薄明り」と言い、刑事一審証人として「暗いと言う程でもなく、少し明るいことは明かつた。肥桶を積む頃は、積むのに支障のない程度の明さ」という感じを述べている。ところが、差戻二審裁判所が八月一四日という日を選んで施行した検証の調書によると、午前四時五二分(標準時の三時五二分、日出前一時間)の明暗度は「一メートル以内では、検証参加者の顔や服装が区別できるが、それ以上離れると、はつきり識別できない」、四時四五分には「約三〇メートル離れたテントは、テントと判つているから、それと推察されるだけで、テントの傍にいる白色の着衣の者は辛うじてそれを見出し得るが、それが人であると判断することは容易でない。」というのである。これらの証拠を併わせ考えると、四、五間(9.22丑葉、9.26山本)もしくは五、六間(10.18寅波)ないしは三〇間離れたところにいる人の性別・年令・服装・人数などを前記の捜査段階における壬岡供述のように判別できたというのは不合理と思われる。(ハ)庚崎自白における当日の三人の着衣は、三人とも白シヤツということになつているのに、壬岡9.22丑葉調書では「着衣は三人とも上下黒の様でありました。」とあり、10.18寅波調書では「服装は三人共白い物を着ていた者は無かつたと思います。」と言つて、白と黒の違いがある。(ニ)壬岡J夫がひいていた車は、人がひく荷車であつたのに、庚崎自白では、はじめ「牛車のような気がする」(9.21甲川)、「牛車」(9.23山本、9.25唐松)と言つていたが、9.26山本調書では「牛車か馬車と直感したが、人の挽く荷車であつたかも知れない」と変り、10.2唐松調書では「荷車だか牛車だか」となつている。

以上要するに、壬岡J夫の捜査段階の供述が、同人の正確な認識と記憶に基づくものであつたかどうかの点で疑問があるし、それが同人の正確な記憶に基づくものであるとしても、庚崎自白との間にかなりの相違点がある。仮りに壬岡が一七日早朝に森永橋の袂で三人の人影を見たとしても、それは庚崎らとは別の人達であつたと考える余地がありそうである。そうすると、両者の供述の合致する点だけをとらえて、それが庚崎自白の真実性を担保する有力な資料になると考えるには、いささか躊躇せざるをえないのである。

(ほ) 巳上供述  この点に関する巳上L郎の供述の要旨は、「同人が機関士として八月一七日午前〇時七分白石発上野行一一二号客車の後部補機に乗務した際に、同列車が金谷川を通過したのち、午前一時五七、八分頃本件列車顛覆現場よりわずかに松川寄りの地点で、松川方面から金谷川方面に向かつて(列車に対面する方向に)線路東側を歩いてくる白シヤツを着た三人ないし五人の無帽の男を見た。」というものであるが、庚崎自白中にも前記(2(ち))のとおり、庚崎らが往路松川からの二人に出会つた後引返えして現場に向つた際、現場から一五〇m位手前(松川寄り)にさしかかつたとき上り客車に出会つたので、線路東側の土手におりて、この列車を避けた、という供述部分があり、両者の供述が列車との出会いに関して、その時刻・場所・人数・両者の進行方向において極めてよく合致しているので、この事実は、庚崎らが庚崎自白の道順を通つて本件列車顛覆現場に赴いたという同自白の真実性を示すものである、と主張された。

しかし、(イ) 庚崎自白は、右の一一二号列車以外の列車との遭遇に関する部分が前記のとおり極めて不合理であるばかりでなく、更に重要な四〇一号列車および往路平石隧道に至るまでの間に当然追越されたはずの四〇二号列車については、全く触れるところがない、などの点からすると、右の一一二号列車との遭遇に関する部分だけが、正確に事実に合致するような供述となつているのは、かえつて不自然のように思われる。(ロ) 右の一一二号列車に関する巳上供述については、取調官が捜査の当初からその内容を知つていた。(ハ) 辛田自白の中にも、一一二号列車との遭遇に関する部分があるが、同人がこの列車との遭遇に関する供述をなすに至るまでの経過は不自然で、右の供述は辛田が取調官の誘導により取調官の意を迎えて記憶にないことを述べたのではないかと疑う余地がないとは言えない(再上告審判決P23以下の1、一一二列車との遭遇の項参照)。これらの点を綜合すると、一一二号列車と遭遇に関する庚崎自白も取調官の誘導により、庚崎がこれに合わせて供述したのではないかとの疑いを生ずるのであつて、そうだとすると両者の供述が合致しているのは当然で、これをもつて庚崎自白の真実性を担保するものと考えることはできなくなる。

(へ) 庚崎失言  いわゆる庚崎失言は、刑事一審における森永橋附近の検証の際に、庚崎が卯波に「俺達が休んだのはもう少し向うの方だつたなあ。」と話しかけたというものである。卯波の戒護のため同行した丑木L夫巡査が検証当日の昭和二五年四月八日福島地区警察署長宛にその事実を報告し、また刑事一審五一回公判においてその旨を証言したのである。しかし、これも庚崎が不用意に真実をもらしてしまつた言葉と解するにはやはり躊躇せざるをえない。丑木L夫がその証言のように正確に庚崎の言葉を聞き取つたものかどうか、庚崎の言葉がその証言のとおりであつたとしても、庚崎がこれによつて表現しようとした意味内容はどうかの点について、この言葉だけから判断するのは危険である。(再上告審判決P20末行からP21行まで同旨)。のみならず、いずれにしても庚崎失言は、いわば偶然の機会に生れたもので、起訴の当時にはもとより予想しえなかつたものであるから、本件においてはこれを重要視することができない。

(と) 卯波K雄方の電灯  庚崎自白の中に、庚崎ら三人が往路鈴木材木店の材木置場を出発して間もなく卯波K雄方の前を通つた、同家では電気があかあかとついていたので、家人に気付かれてはまづいと思つて急いでそこを通りすぎた、という部分がある。右の卯波K雄方では、その夜道路に面した八畳の間に電気を皎皎とつけて、卯波K雄、卯波M夫、辰上N雄らがその室続きの縁側で茶のみ話しをしていた。そして同人らは一二時すぎ頃同家の前の道路を森永橋の方向に急ぎ足で歩いてゆく三人連れの若い男を見たというのである。

右の三名が三人連れの若い男が歩いて行くのを見たという時刻について、<証拠>では、いずれも八月一七日午前〇時半頃又はその後となっており、その他の調書では、同日午前〇時過ぎ頃となつている。庚崎自白では、同日午前〇時頃又は〇時一〇分頃鈴木材木店から出発したというのであり、そこから卯波K雄方までは歩いて一、二分の距離であるから、卯波K雄らが見かけたという三人連れの男が庚崎らだとすると、右の午前〇時半ないしはその後という卯波らの供述は庚崎自白と合わないことになる。時刻の点は一般に正確を期し難いから、この点を別にしても、卯波K雄らは同人らが見かけた三人連れの男が庚崎らであることを確認したというわけではないし、そのような深夜でも祭りの晩のことで通行人がないとは言えないから、三人連れの男が卯波K雄方前の道路を通つたという点で、庚崎自白と卯波K雄らの供述が合致しても、これを庚崎自白の真実性の裏付けと見るのは早計であろう。しかし、卯波K雄方の電灯があかあかとついていたという庚崎供述が、もしも自発的にされたものとすると、それは客観的事実に合致し、庚崎自白の真実性を示すことになるが、(イ) 庚崎のこの点に関する供述は、前記(2(1)(は))の集合出発地点とこれに続く往路の道筋に関する供述の不合理な変更とともにはじまつたものであるし、(ロ) 捜査官がそれ(昭和二四年九月二一日)までの間に、同夜卯波K雄方で夜おそくまで電灯をつけていた事実を探知していなかつたとは考えらない。これらの点を考えると、この点に関する庚崎供述が取調官の誘導により、もしくはこれに迎合して虚偽を述べたのではないか、と疑う余地もないではない。

3実行行為についての辛田自白および実行行為に関連するその他の自白について  辛田は庚崎自白に基づいて九月二二日逮捕され、10.2甲川調書以後の調べで東芝側最終謀議とともに、実行行為について全面的に自白するに至つた。また八月一六日夜東芝松川労組事務所に泊つた者のうちの巳下・午山・癸木・未川らも、同夜丑木R作と辛田が実行行為に赴くため同事務所を出発した際のものとして、その状況を供述している。これらの自白は庚崎自白とたがいに補強し合うものと主張された。

しかしこれらの各自白もその信用性に疑いがあつて、本件犯行の証拠として採用すべきものではない。その信用性を疑う理由は、再上告審判決(P22以下の、その二辛田自白について)が詳細に説明するとおりで、特にこれに附加すべきものはないので、以下その要旨をかかげ、各自白調書中の関係記載部分の所在を指摘するにとどめる。

(い) 辛田が一一二列車との遭遇に関する供述をするに至つた経過が不自然不合理で、取調官の意を迎えて記憶にないことを述べたのではないかと疑う余地があること。

(ろ) 同夜丑木R作が犯行に赴くため松川労組事務所にきたとされる際の状況、同人と辛田がそこから犯行現場に向つて出発したとされる際の状況および二人が犯行を終つてそこに帰つてきたとされる際の状況に関する各供述がまちまちで、同一の事実を共に経験した者たちの供述としては、その信用性に疑いがあること

(は) 辛田自白と庚崎自白の間には、その夜の明暗度、たがいに相手方の人相などを識別しえたかどうか、辛田の履物が下駄か靴か、最初に見張りに立つた者がだれかなどの点について明白なくいちがいがあること

(に) 辛田自白もいわゆる謝礼金自白を含んでいること

なお、辛田が勾留理由開示公判の行なわれた際に、福島民報記者の申谷O郎および酉沢P介に対し、自己が真犯人であると思わせるような言動をしたということ、および二本松地区警察署で辛田と午山とがたまたま調室で一緒になつたとき、たがいに顔を見合わせて「俺は話してしまつた」といい合つたということも、その際辛田ないしは辛田と午山とが言つた言葉が正確に把握されたものかどうか、その言葉の意味内容を同人らが不用意に真実をもらしてしまつたものと解してよいかどうかの点について、さきに庚崎失言について述べたのと同様に、疑問があつて、これらのものを辛田自白の真実性を保証する資料と見るには、やはり躊躇せざるを得ないのである。

4壬岡L郎の実行行為に関するアリバイについて

(い) 双方の主張と問題点 壬岡は、同人が本件列車顛覆の実行行為に参加したという庚崎自白に基づいて起訴された。壬岡は終始この事実を否認し、八月一六日夜から一七日朝にかけての自己の行動について「一六日は夕方米沢の妻の実家から自宅(福島市○○町五〇甲山M代方二階の借間)に帰り、夕食後妻子および甲山M代の孫の甲山Q作を連れて福島市内の稲荷公園などで行なわれた盆踊見物に出掛け、同夜九時半頃帰宅し、既に床にはいつていた甲山M代にあいさつして二階の借間にあがり、間もなく妻子とともに就寝した。翌朝六時半頃目をさまし、床の中で枕元のラジオをきき七時のニュースで本件事故を知り、その後七時半頃までの間に階下台所に洗面におりて甲山M代らに事故のことを話した」と供述してアリバイ主張をし、壬岡の妻の壬岡R江もこれに符合する供述をしている。

壬岡が主張する右の事実のうち、同人が一六日夕食後妻子および甲山Q作(当八年)を伴つて福島市内に盆踊見物に出掛け、四名が一緒に帰宅し、壬岡が甲山M代にあいさつして妻子と共に二階にあがつたこと、および壬岡が翌一七日朝七時すぎ頃階下におりて台所で洗面し、その際家主の甲山M代らに本件列車顛覆事故発生の事実を語つたことは、証拠上疑いのない事実である。

検察官は、壬岡が一六日夜盆踊見物から帰宅し、二階にあがつたあと「翌朝まで自宅で就寝していた」という壬岡および壬岡R江の供述はうそで、「壬岡は同夜ひそかに自宅をぬけ出し、翌朝ひそかに自宅に戻つた」と主張した。そこで、壬岡が同夜自宅をぬけ出し、翌朝帰宅した事実について積極的な証拠があるかどうか、それがない場合でも、壬岡方住家の構造、住人の動静などから考えて、壬岡が人に気付かれずに同家をぬけ出し、翌朝もそこに入る、という行動をすることが可能であつたかどうかが問題になるわけである。

(ろ) 壬岡が一六日夜自宅をぬけ出し、翌朝自宅に戻つた事実について、積極的な証拠があるか、人に気付かれることなくそのような行動をすることが可能であつたか

(イ) 一六日夜壬岡の自宅借間の階下八畳の間で就寝していた家主の甲山M代は、その夜壬岡とその家族が盆踊見物から帰宅して二階にあがつた後のことについて「その後直ぐに寝てしまつて壬岡L郎さんは寝たのか又何処かに出て行つたのかは判りません」「壬岡さん達はその儘二階へ上つて寝たようでありましたから其後の壬岡L郎さんのことについては明日朝起きて来る迄は判りませんでした(中略)朝起きるのは私が一番早く、夏は五時から五時半頃に起きます」「八月一七日の朝ははつきり記憶していませんが多分五時半頃起きたと思います(中略)私は孫等が盆踊りから帰ると直ぐぐつすり寝て仕舞つたので其の後壬岡L郎さんが外出したかどうか判りません(中略)私は夜はぐつすり寝て居りますから其の晩人が出入したのは判りませんでした」と供述し、当時甲山M代方階下六畳の間を間借りしていた戌野R子も「私は当時いつも六時頃起床しておりましたので、その朝(一七日)もその頃起床したものと思います(中略)甲山M代さんは毎朝私より早く起きますので、一七日の朝も早く起きたと思います(中略)八月一六日の晩私は九時頃寝ました。主人も一緒に寝たのでありますが、その後台所から出入りした者があつたかどうか私には記憶にありません」と供述している。

これらの供述によると、甲山M代も戌野R子も一六日夜就寝中に壬岡が甲山M代方を出たり入つたりする気配を感じなかつたし、一七日朝五時半(甲山M代)ないし六時頃(戌野)に起床した後もそのような事実に気付かなかつた、というのであつて、その他にも壬岡が一六日夜自宅をぬけ出し翌朝帰宅して借間に入つた事実を現認したものは全くないのである。

(ロ) 当時の甲山M代方居宅の構造、間取り、出入口の状況および居住状況などを見ると、甲山M代方は、階下は八畳、六畳、四畳半の三室、階上は六畳、四畳半の二室があり、二段階段寄りの四畳半の間を壬岡が借間し、階下八畳の間は甲山M代の居室兼寝室で、一四歳をかしらとする甲山M代の孫三人が同居し、その隣りの階下六畳間は戌野R子夫婦と子二人が居住し、階下四畳半の間は甲山M代の姪の亥原S美の居室となつており、一六日夜もこれらの人々がそれぞれの室で就寝した。壬岡の借間の二階四畳半の室に出入する方法は、二つある。その一は玄関口、すなわち家の北側ほぼ中央に位する玄関の格子ガラス戸から入つて、玄関の土間・板敷を経て、その突当りで玄関に南接の甲山M代一家の居室兼寝室である八畳間を斜め東南に通り抜け、一旦同室に東隣する台所の西南隅にある便所板戸の前に出て、そこから前記甲山M代居室と台所板敷との中間にある階段を北に昇つて、二階廊下から借室に入る方法である。他の一は台所口、すなわち家の敷地の東側板塀にある木戸を入り、前記台所の北東隅土間のガラス戸から台所に入り、台所の土間から板敷を斜め西南に進んで、前記便所の板戸の前から前記階段を昇る方法である。これ以外の出入口はなかつた。玄関の板の間の西側・階下六畳の間の北側には戌野方の勝手場が設けられ、戌野方は、そこで炊事をし、甲山M代方及び壬岡は甲山M代の居室の東側、階段の下の台所で炊事をし、戌野方も、水汲み、洗い物などをするときはこの台所を使用していた。なお、戌野R子は、台所の戸はたてつけは悪くないが、いつもしきいが水でぬれているので、力をいれなければ開けられないことがあると云い、甲山M代も勝手口の戸はがたがた音がして重い戸であつたと云つている。これによると台所の出入口のガラス戸は開閉が重くかなり大きな音がする状態であつたことが窺われる。また、刑事一審検証調書によると、階下八畳の間を横切る際には床板が痛んでいるためか歩く部分の畳がくぼみ且つかすかにその動揺が伝わるのが感ぜられ、玄関の板の間を通る際には床板がくぼみ且つぎしぎしと軋む音がするという状態であつたというのである。

右の状況を見ると、壬岡が階下の甲山M代や戌野R子らが寝しずまつたあとで自宅を出るとしても(おそくも一一時頃までには自宅を出なければ、午前〇時頃鈴木材木店裏で他の二人と待ち合わせることができない。)、甲山M代の寝室に接した階段を下り、そこの台所のたてつけの重いガラス戸を開閉して出なければならないのであるから(表玄関から出るのは甲山M代の寝室を横切らなければならないのであるから、この方法をとることは避けるであろう)、甲山M代に気付かれずに出ることは不可能ではないが、かなりに難かしいと思われる。

(ハ) そこで次に一七日朝の状況を見よう。もしも壬岡が階下の人々の起床したあとに帰宅したら、これらの人々に気付かれずに二階の借間にあがることは、前記のような甲山M代方の家屋の状況からすると極めて困難で、常識から考えると、それは不可能であつたと云うべきであろう。一七日朝甲山M代は五時半頃起床して食事の支度や台所の掃除などをし、戌野R子も六時頃起床して食事の仕度や雑巾がけなどをしていた。

庚崎自白によると、庚崎が実行行為の帰途森永橋袂で卯波および壬岡と別れて帰宅した時刻は、一七日午前四時半過頃ないし五時頃というのであつて、刑事一審検証調書によると、森永橋から庚崎方までは歩いて数分の距離にすぎないから、庚崎ら三名が森永橋で別れた時刻も大体その頃と見てよいであろう。そして検察官は、壬岡は森永橋で卯波および庚崎と別れてから国労福島支部事務所に立ち寄り、そこから自宅に帰つたと主張している。原二審第一回検証調書によると、森永橋から国労福島支部事務所までは壬岡の足で約一時間、同事務所から甲山M代方までは同じく約一七分を要するから、壬岡が国労福島支部事務所で過したいくばくかの時間を考慮に入れると、壬岡が帰宅した時刻は早くて六時頃ということになり、その頃には少なくとも甲山M代が起床して食事の仕度などをしていたわけである。控訴人も同朝壬岡が帰宅したとき、甲山M代が既に起床していて炊事や掃除をしていた事実を認めている。また後記の捜査段階における午下供述によると、午下N介は同日朝国労福島支部事務所で皆の者が出勤する前の六時半ないし八時頃までの間に壬岡が同事務所に入つて来たのを見たというのであつて、壬岡がそこで過した若干の時間を考慮に入れると、壬岡が帰宅した時刻は早くて七時頃ということになり、更に控訴人は、後記のように、壬岡が国労福島支部事務所に立ち寄つてから自宅に帰るまでの間に沿道の人家から聞えるラジオニュースで事故のことを知つたのであろう、と云うのであるが、当日のラジオニュースで事故の放送をしたのは午前六時一五分がはじめてであるから、控訴人のこの主張によつても壬岡が帰宅した時刻は午前六時半前後ということになり、その頃は既に甲山M代のみでなく戌野R子も起床して食事の仕度などをしていたのである。

以上いずれにしても、一七日朝壬岡が階下の人々に気付かれることなく自宅に入ることは、常識からすれば不可能のように思われる。

(は) 壬岡方のラジオが故障していたという甲山M代の供述および一七日早朝壬岡が国労福島支部事務所に姿を見せたという午下N介の供述について。検察官が壬岡のアリバイ主張を容れなかつたのは、右甲山M代および午下N介の供述を信用したからであろう。すなわち、前記の甲山M代供述調書および捜査復命書によると、当時壬岡方のラジオは故障していて聞えなかつた。しかるに壬岡は、一七日朝七時半頃甲山M代方階下台所におりて甲山M代らに本件列車顛覆事故のことを語つたとき「機関手三名即死」という事実も告げたというのである。本件事故で死亡したのは機関士一名、同助手二名であり、また当日朝のラジオニュースで放送されたこの点の内容は「乗務員三名即死」というのであつて、右の「機関手三名即死」というのは、そのまま正確とは云えないが、たしかな情報によるのでなければ知りえない事実で、壬岡が本件線路破壊の実行行為をした真犯人であるとしても、それだけではこのような点まで知り得るわけがない。自宅のラジオが故障できくことができないのに、壬岡がこのように正確な事実を語つたとすれば、壬岡はこの知識をどこか戸外で入手したに違いない、という疑いが生じる。また午下は壬岡を一七日早朝国労事務所で見掛けたと云つている。以上いずれにしても、壬岡が同日朝七時すぎ甲山M代方階下に洗面におりるまでひきつづいて自宅で就寝していた、という壬岡および壬岡R江の供述は虚偽ということになる。

検察官が壬岡のアリバイ主張を容れなかつたのは、以上のような考察の結果によるものであろう。そこで次に右の甲山M代および午下N介の供述がそれほど信用性の高いものかどうかを検討する。

(イ) 甲山M代供述 壬岡が一七日朝七時過頃自宅階下の台所で甲山M代らに事故のことを話したとき、「機関手三名即死」という事実を語つた点は、間違いのない事実のようである。甲山M代は事故発生の翌日にすでに聞込みに来た警察官にこの事実を述べているし、その後もこの点の供述は変つていない。壬岡自身は、死傷者の数についての放送はなかつたから、そのことは話さなかつたというが、前記のとおり当日のラジオのニュース放送では「乗務員三名即死」という事実も放送しているのであるから、壬岡の記憶違いと考えることもできる。

しかし、甲山M代の供述中の壬岡方のラジオが故障のため聞くことができなかつたという点は、たやすく信用することができない。甲山M代がこの事実を知つた根拠として述べるところは、故障の事実を甲谷T代(同人は八月一三日まで甲山M代方二階の壬岡の隣室の六畳間に居住していた。)から聞いたということと、お盆の頃から壬岡方のラジオが鳴つていなかつたということであるが、甲谷自身は、壬岡方のラジオがよく故障したとは云つているが、当時故障したとは述べていないし、刑事一審一六回公判において証人として供述した際には、同人が八月一三日甲山M代方から他に転居したときは、壬岡方のラジオは鳴つていたと云つている。また壬岡は、家族とともに八月九日頃から同月一六日までの間に米沢の妻の実家や佐倉村の家父の許に行つてそれぞれ数日泊り、自宅にはその間一度帰り一晩か二晩泊つただけであるから、お盆の頃から壬岡方のラジオは古くて音が低かつたというである。わざわざ聞き耳を立てている理由もないとすれば、鳴つていても聞えないこともあろうし、聞えても気付かないこともあろう。確たる根拠もなしに、他人の家のラジオが故障しているなどと云つても、信用できないと考えるべきであろう。その他に、壬岡方のラジオが故障していた事実を証するものはない。またそもそも壬岡は、自宅のラジオが故障しているにかかわらず、機関士三名即死という正確な事故の情報を語れば、人に怪しまれるに違いないのであるから、そのような事実を語るわけがないと考えられる。検察官は、壬岡が、以前ラジオの修理を依頼したことのあるラジオ店の所在まで述べさせているが、これについて調査した結果についての資料は見当らない。

なお甲谷T代の前掲供述調書中には、甲谷が事故の数日後壬岡L郎の妻壬岡R江と事故のことを話合つたとき、「壬岡R江は朝六時ないし六時半頃床の中で目が覚めたら、夫の壬岡L郎ちやんに松川で列車顛覆して人が三人死んだと聞いたと言つたので、私(甲谷)はラジオで聞いたとかいと問うと、ラジオはかけて居らなかつた、壬岡L郎ちやんが外で聞いて来たのだべと語つて居つた」との趣旨の記載があり、また控訴人は、壬岡が一七日朝自宅のラジオで本件事故の発生を知つたというのは嘘で、壬岡はその朝国労事務所から自宅に帰るまでの間に沿道の民家から聞えるラジオニュースで本件列車事故のことを知つたのであろう、と判断される、という趣旨の主張をしている。甲谷が壬岡R江から聞いたという話の内容であるが、壬岡が真犯人であつたとしても、壬岡R江が「壬岡L郎ちやんが外で聞いて来たのだべ」などと軽々しく他人に話すわけがないから、甲谷のこの点の供述は、それだけでも軽々に信用すべきではないが、控訴人も壬岡は自宅以外の場所で事故のことを知つたと主張するので、仮りに壬岡が庚崎供述のように森永橋で庚崎らと別れたものとして、その後七時過ぎ頃自宅台所にあらわれるまでの間にその知識を得る機会があつたかどうかを検討して見る。

当時本件の捜査に当つた検察官田島勇は、原審証人として、壬岡は事故の情報を国労福島支部事務所に立ち寄つて聞いてきたのではないか、と考えたと証言している。しかし、後記の午下供述によると、午下が一七日朝国労福島事務所で壬岡に話したという事故の内容は、午下が郡山分会からの電話で知つた内容と同じで、それは「松川と金谷川間で列車が脱線顛覆し機関士や助手は行方不明でどこかに逃げたらしい」という趣旨のものにすぎず、機関士三名即死という正確なものではなく、むしろその反対の事実であつたし、午下がその話をすると、壬岡は「そのことは知つている」と云つたというのである。その他そのときの壬岡の行動に関する午下の供述はあいまいで、壬岡が国労事務所で本件事故の正確な内容を知つたことを窺うに足るものはない。壬岡が同事務所から自宅に帰る途中沿道の人家から聞えるラジオニュースによつて本件事故の内容を知つた、という想定も苦しい憶測にすぎない。

(ロ) 午下供述 午下は変更前の供述では、一七日朝国労福島支部事務所で壬岡を見掛けた事実を述べていないが、10.5乙沢調書から一貫してその朝壬岡がいつになく早い時刻に出勤してきたと述べ、庚崎自白をのぞいては、この午下供述が壬岡の実行行為アリバイをくずす根拠として主張されてきた。しかし、午下のこの点の供述は、明らかに虚偽と思われる点(原判決一一八〇頁九行以下、集四〇六頁末行以下の四の項参照)のある10.5乙沢調書からはじまつたばかりでなく、その内容に可成りの変化がある。すなわち、壬岡が同事務所に現われた時刻について、10.5乙沢調書では「午前七時か八時頃の間」とされていたのが、10.7山本調書「午前七時頃」10.11山本調書、10.12唐松調書「六時半頃」と順次早い時刻に変り、そのときの壬岡の行動については、10.5乙沢調書では「壬岡さんは何処かわ知りませんが鉄道電話にて各方面に電話をかけて居つた様に思われます」といつていたのに、その後は電話をかけた事をのべず「壬岡は機嫌の悪い顔で事務所に入つて来て、自分が列車事故の話をすると、そのことは知つている、と云つていた、そして、新聞をさがしたり、机に向つて何か書きものをしていた。」ということになつていた。

時間の点の記憶は、だれの場合でも正確をのぞみえないものであるが、その朝は事故の朝で、午下供述によると、自分達(事務所に泊つた午下のほか、丙野・丁原・戊崎ら)がみんな起きたあと、壬岡がいつになく早く一番に出勤してきた、それから間もなく組合の書記や役員達が出勤してきた、というのであるから、これらの点から考えれば、壬岡が出勤した時刻はもつと正確にいえそうなもので、一時間半もの差があるのは不自然であるし、またそれが次々と早い時刻に変つたのも不可解である。壬岡が七時ないし六時半頃の時刻に自宅の借間から階下台所におりて、甲山M代らに列車顛覆事故の話をしたことは、証拠上明らかで争いのない事実であるから、壬岡が国労事務所で新聞をさがしたり、机に向つて書物をしたりして若干の時間を費したということ、事務所から甲山M代方までの距離(壬岡の足で約十七分)を考えると、少なくも10.5乙沢、10.7山本の、壬岡が事務所にあらわれた時刻の点の供述(七時から八時、七時)は不合理といわなければならない。また、午下供述によると、その朝壬岡が国労福島支部事務所にあらわれたときには、前の晩に同事務所に泊つた丙野・丁原・戊崎らも既に起床して掃除や食事の仕度をしていたというのであるから、午下が不審に思う程の早い時刻に壬岡がそこにあらわれたとすれば、ほかにも気付いた者がいたはずであるのに誰もそれらしいことを云つていない。更に、庚崎自白によると、庚崎ら国鉄側の実行行為者は、森永橋袂で午前四時半ないし五時頃別れて各自の家に向つたというのであるが、そこから国労福島支部事務所までは、壬岡の足でも約一時間にすぎないから、壬岡が六時半又はその後同事務所にあらわれたとすると、時間がかかり過ぎているように思われるし、また壬岡は甲山M代らが起床する前に帰宅した方がよいと思われるのに、何のために、午下に不審に思われるような時刻に国労福島支部事務所に立ち寄つたかなどの疑問を拭うことができない。

これらの疑問点があるとすると、その朝皆の出勤する前に壬岡が国労福島支部事務所にあらわれたという午下供述をたやすく信用することはできない。

(に) 壬岡アリバイの成立を否定しうるか  以上要するに、(イ) 壬岡L郎、同壬岡R江の前記供述中、壬岡が一六日夜家族と共に盆踊見物に出掛けて帰宅し二階の借間にあがつたこと、翌一七日朝七時過頃階下の台所におりて洗面したことについては争いがなく、(ロ) 前記のような甲山M代方の家屋の状況の下で、階下の住人の甲山M代も戌野R子も壬岡がその夜屋外に出入したような気配その他何らの異常も感じなかつたと云い、殊に検察官の想定によると壬岡は一七日朝甲山M代もしくは同人と戌野R子とが既に起床した後に帰宅したことになるのに、両名はそれらしい気配を全く感じなかつた、と供述しており、(ハ) 検察官が信用して壬岡アリバイを否定する根拠とした甲山M代と午下N介の各供述部分は、いずれもそのように信用に値いするものではないのである。

そうすると、壬岡が実行行為に参加した事実を証するもの、すなわち壬岡アリバイ成立を否定させる証拠としては、結局において庚崎自白をおいて他にはないことになるが、庚崎自白それ自体にはさきに指摘した幾多の疑点があるほかに、壬岡に関する供述部分だけを見ても、その信用性に疑いを懐かざるを得ない理由がある。すなわち、さきに述べたとおり庚崎自白中壬岡の一五日謀議参加の点は事実に反することが明らかとなつた。そうすると、同日は米沢市の妻の実家におり一六日夕刻帰宅した壬岡に対し、同謀議によつて定められた実行行為に出発する時刻、集合地点などの連絡をする必要があるわけであるが、この連絡が行なわれた時・場所・方法については何らの証拠がない。のみならず、庚崎自白は、壬岡の実行行為参加については「私の良心に誓つて絶対に壬岡L郎であると云う事は間違ひなく断言出来ます」となつているが、実行行為に赴いた際の壬岡の行動に関する供述部分は、多数の自白調書のどれを見ても極めて個性の表現に乏しく、単純かつ抽象的な描写をしているにすぎない。行為者の特定のための唯一の基準としての「壬岡L郎」という名に代えて他の同年輩の誰の名を置き代えてもよいほどの代替性のある表現で、これだけで果してその共犯者が壬岡本人に間違いないと信じてよいものかどうかを疑わせるものがある。

証拠の採否は、裁判所の自由な判断に任されているとはいえ、数名の共犯者によることが予想される犯罪について、自白をした一人が他に共犯者があるとして、単にその者の氏名のみを挙げたにもひとしく、他に共犯者がその者であることを特定するに足る事実その他その者の加功を推認させる特段の事情の認められない場合に、裁判所が専ら自由心証の名の下に、この自白を唯一の根拠として、その者を共犯者として積極の判断をなしうるものであろうか。疑いなきをえないのである。

5卯波O作の実行行為に関するアリバイについて

(い) 卯波の主張と問題点  庚崎自白によると、卯波は本件線路破壊作業に国鉄側のリーダー格として参加したとされているが、卯波はこれを否定し、原判決一〇九一頁四行から一〇九二頁一〇行まで、集三七四頁三行から一二行までに記載のとおり、一六日夜は夕方から丙谷C郎方で仲間とともに酒食のご馳走になり、酔つて国労福島支部事務所に泊り、一晩中そこで寝ており、一七日早朝には外部からの電話に出たし、自分も外部に電話をした、といつてアリバイ主張をした。そこで、卯波が同夜事務所に泊つたかどうか、一七日早朝同事務所で外部からの電話に出たかどうか、卯波自身が外部に電話をした事実があるかどうかなどの点が問題となるわけである。

(ろ) 午下N介の供述  同夜午下N介のほかに戊崎W平・丁原V作・丙野U江の四名が同事務所に泊つた事実は、当事者間に争いがない。右の午下N介は、はじめは卯波が同夜おそく同事務所に来て泊つたと供述し、卯波がそこに来た際の状況、それから一七日朝にかけての卯波に関する事実を詳細に述べ、しかもその供述内容が卯波自身の供述ときわめてよく合致していた。両者の供述内容およびその合致点については、原判決一一〇七頁一行から一一二九頁七行まで、集三八〇頁三行から三八九頁九行までに記載のとおりである。しかるに午下は、この供述をひるがえし、10.5乙沢調書からは、同夜卯波が国労福島支部事務所に泊つたことはない、と云うようになつた。

そこで、午下供述について変更の前後のどちらを信用すべきかについて検討する。

(イ) 変更前の午下供述は、具体的で真にせまつた描写をしている部分があり、また事故当日の故に起きた、普段の日には起りそうもない事実に関連しており、しかもそれが卯波供述と合致している。この事実は二人が卯波のアリバイ作りのため通謀して口裏を合わせた、とでも考えない限り、当夜同事務所で体験を共にし、この体験に基づいて供述したと考えざるをえない。

(ロ) しかるに午下は、卯波が逮捕される前に、卯波とそのアリバイ作りのため通謀した事実を全く述べず、そのような事実をうかがわせる資料もない。もしそのような事実があつたとすれば、午下は変更後において、変更前の供述について、そのような供述をした理由として卯波との通謀の事実を挙げそうなものであるが、午下はそれを云わないのである。

(ハ) 午下は変更前の供述をした理由の一つとして、卯波が逮捕された日(九月二二日)の後の九月二四、五日頃丙谷C郎・丁沢D介・戊崎W平・丁原V作・丙野U江らから二回にわたつて、一六日夜卯波が国労福島支部事務所に泊つた事実を取調官に述べて貰いたい、と依頼されたためであるという趣旨のことをいい、また同月末頃弁護士から卯波の一六日夜の行動について尋ねられた事実を述べている。しかし午下は、その際丙谷らから依頼されたのは、卯波が一六日夜国労福島支部事務所で泊つたという本当の事実をありのままに述べて貰いたい、という趣旨であつて、卯波が泊らなかつたのを泊つたように虚偽の事実を供述するように依頼されたとは全くのべていない。そして午下は供述変更後も、変更前の供述内容が当時の記憶にない事実、記憶に反する事実であつた、とは云わず、かえつてそれは当時の記憶をそのまま述べたものであるとの趣旨のことを終始一貫して供述しているのである(原判決一一四九頁一〇行から一一六四頁八行まで、集三九六頁五行から四〇一頁一三行までに記載のとおり)。検察官は、丙谷らが卯波逮捕の後に、前記のように午下と話し合つた事実について、それが丙谷らの卯波のためのアリバイ工作である、と強調した。検察官が一応そのような疑いを懐くのは当然であろう。しかし、右にのべたように、午下の供述からは、その変更の前後を通じて、右の話合いが検察官の主張する趣旨のアリバイ工作であつた臭味は全く感じられない。丙谷らが、親しい仲間の卯波が逮捕されたことについて、それがいわれのない逮捕であると考えたとすれば、その無実を明らかにする方法として、アリバイ証拠を保全しようとするのはこれまた当然で、極めて自然な行動と云えよう。

(ニ) 午下は供述変更の理由として、以上のほかに、(ⅰ) 卯波が一七日朝おそくまで就寝していたと供述した点について「私もいろいろ考えてみましたが、一七日朝はそのような事件が起きたため、皆早く起きたのです。それから思い合せますと皆が起きたにも拘らず、一人だけ寝て居る訳がないのです。それでその日には泊つて居ないとゆう事が判つたのです」といい、また、(ⅱ) 「一六日の夜電話がかかつて来て事故のあつたことを知つたとき国鉄労組関係の人は誰もいなかつた、若し居れば自分には何等関係のない電話であるからその人に電話を引継いだはずである、然るにそういう事がなかつたから国鉄労組の関係者は居なかつた、従つて卯波さんも居なかつたと考えたからです」と云つている。これらの供述は、一応もつともらしい理由をのべているようであるが、よくみると、(ⅰ)は、一七日朝は皆の者が早く起きた、卯波が一人だけおそくまで寝ていたと云つたのは記憶違いであるとの、(ⅱ)は、一六日夜郡山分会からの電話が、かかつて来たとき国労関係の者は誰も(卯波も)居なかつた、卯波に電話を引き継いだと云つたのは記憶違いであるとの趣旨にすぎず、そのような記憶違いをした理由について答えているものではない。また、(ⅲ) 午下は供述変更後において、卯波がその夜ではなくその頃の他の日に夜酒に酔つて国労支部事務所に泊つたことがある、と供述し、控訴人は、午下がそのため卯波が泊つたのが一六日夜と誤信するに至つたと主張している。しかし、さきにも述べたように、変更前の午下供述には事件の当夜であつたが故に生じた事実、普段の日には起きそうもない事実に関連した状況が具体的に述べられているのであつて、午下が他の日の出来事を一六日夜のことと錯覚したなどということは、この供述内容自体からして到底考えられない。のみならず、卯波がその頃の他の夜酒に酔つて国労福島支部事務所に泊つた事実を証する資料は全く存在しないのである。

(ホ) 午下が卯波の国労事務所宿泊の点について供述を変更した10.5乙沢調書およびこれにつづく10.7山本調書、1011山本調書には、明らかに意識した虚偽の供述としか考えられない部分が含まれている(原判決一一七九頁五行から一一九一頁七行まで、集四〇六頁九行から四一〇頁一三行までに記載のとおり)。のみならず、さきにその信用性を否定すべきものとした、壬岡の国労事務所立寄りに関する供述も、右の10.5乙沢調書からはじまつているのである。

以上要するに、変更前の午下供述は、具体的写実的で事件当夜でなければ起りえない特異な出来事に関連した部分があり、他の者から圧力をかけられたり、他の日のことと混同したりして、そのように思い込むなどという性質のものではなく、しかもそれが卯波の供述とよく合致している。また午下の右供述は、午下が他の者からの働きかけによつて意識して嘘の供述をしたものではなく、当時の記憶をそのままに述べたものである。午下が供述変更の理由として述べるところは、それとしてきわめて薄弱であり、変更後の供述には意識的な虚偽としか考えられない部分がある。このように見てくると、変更前の午下供述の信用性を否定し、変更後のそれを信用に値いするものとすべき理由は見出せないように思われるのである。

(は) 電話  電話に関する卯波の主張の要旨は、原判決一二八九頁三行から一二九一頁一行まで、集四四四頁一行から一四行までに記載のとおりである。そこで卯波アリバイの成否について、時間的に最も重要な未山電話、郡山分会からの電話、申川電話の三つについて検討する。

(イ) 未山電話 この電話があつたこと、この電話に関する午下・卯波の各供述は、原判決一六〇四頁一行から一六〇七頁四行まで、集五五二頁八行から五五三頁一一行までに記載のとおりである。午下が「保線区」からの電話と云つているのは、福島保線区の未山A雄からのもので、同人が本件事故のため同僚の壬岡B夫に応援を求めるべく、その住居の近くにある国労福島支部に電話して呼出しを依頼したのである。その際のことに関する午下と卯波の供述が微妙に合致しているのである。このように二人の供述が合致しているのは、何か特別の事情がない限り両名が体験を共にしたからであると考えざるをえないことは、さきに変更前の午下供述の全般についてのべたところであるが、特にこの電話に関する両名の供述についても、そのような特別の事情の存在を窺い得ないことは、原判決一六〇八頁から一六二四頁まで、集五五三頁一六行から五五九頁二行までに記載のとおりである。さきに午下の変更前後の各供述について、その信用性を検討した際に掲げた諸般の事実を綜合すると、午下が供述の変更をするに至つたのは、むしろ取調官の側からの強力な圧力によるものではないかと疑われるのである。

(ロ) 郡山分会からの電話 もと郡山機関区の機関士であつた己田C郎は、八月一七日朝りんごの買出しに行くため郡山駅午前四時三九分発の列車に乗車すべく同駅に赴いたが、本件事故が発生したため列車が通じないことがわかつた。同人はもと国労福島支部郡山分会の組合員であつたので、ただちに同駅前にある同分会事務所に事故発生の事実を知らせた。同分会事務所には書記の己田D介と労組員の庚岡E作らが泊つていた。庚岡E作は己田D介の指示によつて、とりあえず事故の発生を知らせるため、国労福島支部事務所などに電話をかけた。同事務所では、午下N介がこの電話をうけた。午下はこの電話を受けた際のことについて、供述変更前は、郡山分会から松川金谷川間で列車が顛覆したとの事故を知らせる電話を受けて卯波を起こし、この電話を卯波に引き継いだ、という趣旨の供述をしていたが変更後は、国鉄労組関係の者は居なかつたので誰も起こさなかつた、と云うようになつた。一方卯波は、一七日朝多分六時頃だと思うが電話だと云つて起こされた。電話に出てみると郡山分会の己田からのもので四一二列車が金谷川松川間で脱線した、直ぐ民主団体や組合幹部に連絡して調査団を現地に送つて貰いたい、という電話であつた、と供述している。

そこで郡山分会から己田D介が国労福島事務所に電話をしたかどうか、それを卯波が受けたかどうか、その内容が卯波の供述するようなものであつたかどうか、の点が問題になる。

まず庚岡E作の供述を見ると、同人については捜査段階において取調べたものはなく、刑事一審証人として原判決一二九六頁四行から一三〇〇頁末行まで、集四四六頁一一行から四四八頁一四行までに記載のとおり供述している。すなわち、庚岡は「己田C郎から事故の知らせをうけたあと国労福島支部に二回電話をした。一回目はとりあえず事故の知らせをするためのもので、二回目は岩代熱海の乙川C美からの、民主調査団派遣の手配をせよ、という指示を同支部に伝えるためのものである。二回目の電話の中途で己田D介が電話を取つて支部と話をした。」という趣旨の供述をしており、二回目の電話の内容およびそれに己田D介が出た点は、それが支部に関する二回目のものであることを別にすれば、卯波の供述と合致する。

次に己田D介の捜査段階における供述は、原判決一三一四頁九行から一三一七頁七行まで、集四五三頁五行から四五四頁五行までに記載のとおりである。終りの部分の「若し」(その前の行に「陳述人」と書いてそれが抹消されている)以下はあいまいな表現になつている。あいまいにされた原因が己田の側にあるのか、取調官の側にあるのか、不可解であるが、いずれにしても己田がその当時、八月一七日早朝郡山分会から福島支部にかけた電話に自分も出たこと、その電話の相手が卯波であつたこと、電話の内容が調査団を派遣するようにという乙川C美の指示を支部に取り次ぐ趣旨のものであつたことについて記憶を持つていた事実を推認することが出来る。なお、乙川C美11.10山本調書、11.12山本調書、および酉谷F平11.11山本調書には、己田D介と庚岡E作の供述の中の「一七日朝事故の知らせを岩代熱海の乙川C美に電話したところ、はじめ酉谷が出て後に乙川が出た、乙川から調査団派遣のことを支部に伝えるようにとの依頼があつた。」との趣旨の部分について、これに対応する意味において合致する供述記載がある。また、郡山分会から岩代熱海へかけた電話にはじめ酉谷が出て乙川に取り次いだ点は、辛井F平10.30丑葉調書によつても裏付けられている。

以上の証拠を通観すると一七日朝郡山分会の己田D介が福島支部に調査団派遣の手配をするようにという乙川C美からの指示を伝える電話をし、この電話に卯波が出た事実は、変更前の午下供述をまつまでもなく疑う余地がないように思われる。のみならず、変更前の午下供述が、これらの証拠を別にしても信用に値いするものであることは、前に述べたとおりである。午下は、郡山分会からの電話が二回あつたこと、および調査団派遣を指示する内容の電話があつたことを述べていないが、この点は原判決一三三五頁三行から一三三八頁五行まで、集四六〇頁六行から四六一頁七行までに記載のとおりに考えることができるので、別に以上の認定の障害にならない。

なお、この電話の時刻については、原判決一二八三頁一行から一四〇四頁まで集四七五頁一三行から四八三頁八行までに記載のとおり午前四時五〇分頃からおそくも午前六時頃までの間とみてよいであろう。もつとも、後に検討する申川電話が申川のいう午前四時一〇分頃ではなく、午前四時五〇分頃から午前六時頃までのある時点ということになれば、郡山分会からの電話はその前、すなわち正確に云えば、午前四時五〇分頃から申川電話の時刻までの間ということになる。

控訴人は、卯波が郡山分会からの電話に出たことを否定する根拠の一つとして、その時既に目をさましていた戊崎W平の供述の中にその事実があらわれていないことをあげているが、この主張の理由のないことは原判決一四〇五頁一行から一四三一頁四行まで、集四八三頁九行から四九二頁一三行までに記載のとおりである。

庚岡E作が刑事一審証人として尋問された際に行なわれたいわゆる役員問答も(その内容および問題点は、原判決一三四八頁一行から一三四九頁一行まで、集四六四頁一三行から終りの行までに記載のとおり。)、この問答が行なわれた経過(原判決一三四九頁九行から一三五三頁一行まで、集四六五頁五行から四六六頁九行までに記載のとおり)と、庚岡が電話で聞いたという「今日は役員はいない」という言葉が、正確にその際の相手の言葉を把握したものかどうかについて、さきにいわゆる予言、失言などといわれるものについて述べたと同様に疑いをいれる余地がないとは云い切れないことを考えると、これをもつて卯波アリバイ否定の根拠とするのは尚早である。のみならず、この問答は、公判に入つてから偶発的にされたものにすぎないから、本件において起訴の当否を判断するに当つて重視すべき資料ではない。

捜査段階において、卯波がこの電話に出た事実に関して収集された資料は、変更前の午下供述を別としては、右の己田D介11.12壬木調書だけで、そのほかにはないようである。しかし卯波は、はじめから自己の当夜のアリバイを証するものの一つとして、この電話に出たこと、その相手が己田であつたことを供述しているのであるから、出来るだけ早期に己田および庚岡(郡山分会からの電話は、卯波供述ばかりでなく午下供述にも出ているから、調査すればその発信者が庚岡であつたことが判明したと思われるし、庚岡については、さきに引用の己田および乙川の供述にもあらわれている。)の取調べをすべきであつた。しかるに検察官は、その取調をしないままで卯波を起訴後の一カ月近くも後にようやく己田を取調べたが、その調書の記載は肝心な卯波に関する部分が不可解な表現でされ、この部分の記載をしないで打ち切ろうとしたあとさえみられる(原判決一三二七頁九行から一三二九頁五行まで、集四五七頁一三行から四五八頁四行までの記載のとおり。)庚岡について調査したものは見当らない。検察官としては、アリバイ主張についても虚心に耳を傾けるべきであり、その捜査にも十分な努力をおしむべきではあるまい。

(ハ) 申川電話 この点に関する卯波の主張および申川供述の内容および問題点は、原判決一四三九頁から一四四七頁七行まで、集四九五頁五行から四九八頁一二行までに記載のとおりである。右の申川供述は、通話の事実・その相手・内容の点で卯波の主張と合致するが、時刻の点で約一時間のくいちがいがあるという理由で、卯波アリバイについての証拠価値が否定された。

しかし、(ⅰ) 申川供述が意識した虚偽のものではないかとの疑いは、原判決一四四八頁一〇行から一四五一頁末行まで、集四九九頁二行から五〇〇頁三行までに記載のとおり合理性に乏しいように思われる。(ⅱ) 控訴人は、仮りに申川のいうような卯波からの電話があつたとすれば、それは申川のいうとおり四時一〇分頃である、と主張する。しかし、四時一〇分頃という時刻は、庚崎自白によると、卯波らが実行行為の帰途帰宅途上にあつて、森永橋にまだ到着していないか、または到着してそこで休んでいるか、いずれにしても卯波は庚崎と一緒にいる間のことであるが(この点の説明は、原判決一四八一頁一〇行から一四八四頁八行まで、集五一一頁三行から五一二頁三行までのとおり)、庚崎自白の中に卯波が電話をした事実は全く述べられておらず、むしろそのような事実はなかつた趣旨にしか理解できないこと、卯波がその頃どこか他の場所から鉄道電話をかけることが可能であつた点について、これを窺うに足る資料が全くないことなどを考えると、卯波が四時一〇分頃どこか他の場所から申川に電話をしたのであろう、という想定も現実的なものではない。(ⅲ) 電話の時刻に関する申川供述が絶対に正確なものとして受け取つてよいかどうかの点について、必ずしもそのように保障しえない、むしろそれは五時一〇分頃と考えるべき蓋然性が高い、とする原判決一四九三頁一行から一五四一頁五行まで、同一五五四頁七行から一五五六頁まで、集五一四頁一一行から五三〇頁一七行まで、同五三五頁一二行から五三六頁八行までの論証は、そこに掲げられている証拠に基づく推論として不可能とはいいえない。

このように考えてくると、申川供述の卯波アリバイに関する証拠価値を、電話の時刻の点で卯波の主張とくいちがいがあるという理由だけで否定し去るのは、やはり早計というべきであろう。

(に) その他の証拠、特に甲山P江卯波Q子の各供述について  卯波アリバイに関しては、以上のほかに、卯波が一六日夜国労福島支部事務所に行くまでの事情、同事務所に入つた際の状況、一七日朝おそくまで同事務所内で就寝していた状況などに関する各種の証拠があるが、卯波アリバイの成否に関する検察官の判断の当否を考察するについては、以上で足りると考えるので、その他の証拠に関する検討を省略し、検察官が援用した甲山P江供述およびこれと関連のある卯波Q子の供述について触れておくにとどめる。

検察官は、甲山P江10.12唐松調書中の「自分は卯波O作の隣家の者であるが、列車顛覆事故のあつた朝未だ暗い中卯波O作が外出先から家へ帰つて来て、かあちやんかあちやんと三、四回呼んで家に入り、その朝自分が起きた後卯波が洗面しているのを見た。」との趣旨の証言を援用し、これをもつて変更後の午下供述と相俟つて、卯波が一六日夜は国労福島支部事務所に自宅にも泊らず、自宅には暗いうちに外出先から帰つた事実を明瞭ならしめるものと主張した。

しかし、右唐松調書の記載によると、卯波が朝早く帰宅して「かあちやんかあちやん」と云つて母親を呼んだ日の点に関する甲山P江の記憶は必ずしも検察官が引用するようなはつきりしたものではない。すなわち、同証人のこの点に関する供述は、唐松裁判官からの「列車顛覆事件のあつた朝証人の隣家の卯波O作が何処か外出先から帰つて来た時の事を知つて居るか。」との問いに対し「多分その列車顛覆事故のあつた日の朝まだ暗い中だと思いますが、」云々というもので、一七日朝という明確な記憶にもとずく供述と受け取ることのできないものである。この点に関し、甲山P江10.12甲山調書には「先日松川と金谷川駅の間で列車が顛覆した八月十七日と記憶しておりますが、朝未だ暗い内に隣りの卯波O作さんが何所に行なつて来たのか帰つて来て家へ入るため、母を起して入口の戸を開けて貰うために「母ちやん、母ちやん」と三度程呼ぶ声がしました。」と記載されているが、事故のあつた一七日朝のことと記憶している根拠となる事情があつたことについては、この調書にも、さきの唐松調書にも全く記載がされていない。甲山P江に対する取調べがされたのは、本件事故発生の日から二か月近くの後であるから、本件の事故と結び付くか又はその他一七日のことに間違いないと記憶する何らかの事情がない限り、卯波が朝早く帰宅して戸外から母親を呼んだ日が一七日のことであるといつても、たやすく信用することがではないと考えるべきであろう。殊に右の甲山調書によると、卯波はその頃度々夜遅く帰宅して、家人を呼び起すことがあつた、というのであるから、甲山P江が他の日の出来事と混同して記憶することも考えられる。

右の唐松調書には、卯波が戸外から母親を呼んだ時刻の点について「私が卯波O作さんの先程申し上げた『かあちやん、かあちやん』と起す声を聞いたときはまだ戸の透間から表の明りが見えず、暗かつたので朝方ですがまだ暗い中だつたように記憶して居ります」との記載がある。しかし、検察官が原二審論告において、庚崎自白に基いて卯波の帰宅時刻と主張する五時二十分頃の明暗度は、「戸の透間から表の明りが見えない」程暗くはない。原二審検証調書によると、甲山P江の寝室の南側廊下の雨戸の隙間は一分から二、三分、広いところは七分もあるが、後戻後二審証調書によると、右時刻頃の戸外の明るさは、新聞紙の活字が判読できる程度である、というのであるから、甲山P江は、寝室と廊下との間の障子を通してでも、右の時刻頃には、雨戸の隙間からもれる戸外の明るさをはつきり見ることができたわけである。

そして、甲山P江は刑事一審において証人として「卯波が、本件事故のあつた頃夜遅く帰つて来て戸口で母あちやん母あちやんと云つて母親を呼んだことははつきり記憶しているが、それが八月一七日のことであるか、朝のことであるか夜のことであるか、の点についてははつきりした記憶がなかつた、それを警察で八月一七日の朝のことと述べたのは、自分の記憶ははつきりしていなかつたが、警察官から度々卯波は一七日の朝どうしたかと尋ねられたため、何気なく多分そうではないかと思う様になつた」との趣旨の供述をしている。この供述は、甲山P江が隣人である卯波に遠慮して真実をボカして述べたとも考えられるが、前記の唐松調書および甲山調書の記載内容(日の点が、はつきりした記憶によるものとは受取れないこと、時刻の点が、朝とはいうが、まだ暗いうちと云つていること)からすると真実を述べたとも考えられる。

卯波が一七日早朝に他所から自宅に帰つたかどうかということを判断するために、甲山P江の供述の採否を考えるに当つては、あわせて卯波の義母卯波Q子の供述にも触れておくことが有意義である。卯波Q子は、卯波が逮捕された日の9.22癸葉調書において、卯波が一七日の朝七時頃に家へ帰つて来て、昨夜は丙谷方で酔つぱらつてそこで泊つて来たと云つた旨を述べた。ところが卯波Q子は、10.8山本調書において、自分がかねて受けた手術の予後手当のため病院に行くべく、一七日午前一〇時半頃に自宅を出て、国労事務所の前まで来たら、そこに居合せた卯波O作に会つたのであつて、卯波O作は、朝自宅に戻つていない旨、前供述を変更した(卯波Q子の病院通いについては10.18付県立女子医専付属病院から山本検事の同日付照会に対する回答中で、卯波Q子は、同年六月一〇日から二〇日まで入院したが、退院後通院せず、一七日はいずれの科へも来院しない旨の書面が寄せられている。)。甲山P江の取調べが行なわれたのは、卯波Q子の供述変更後のことである。検察官としては、卯波Q子の後の供述中の卯波O作に会つたのが自分の通院途上であつた旨の供述部分は、病院からの回答によつて嘘であることは確かであるので、卯波O作が朝自宅に戻つていない旨の供述部分も嘘であつて、そのゆえに前掲変更前の卯波Q子供述およびこれと同旨の卯波逮捕前の捜査報告こそは、正しい事実の線に近いものと考えたのであろう。そうしてみぎ卯波Q子供述中の卯波の帰宅時刻を甲山P江の述べる早朝ということに修正して考えるならば、甲山P江の「多分一七日の朝のことと思うが」との留保はあつても、甲山P江の供述によつて裏付けられることになる、という証拠評価が生まれ、それがさらに進んで本項冒頭に掲げた検察官の主張に導かれたものと思われる。当日早朝の卯波自宅での出来事の有無だけを考えるために、かつ、そのため判断資料を隣人または家人である甲山P江および卯波Q子の前掲各供述だけにしぼつて、その限りでの証明力の評価を試みるならば、一面において正しいものを含む、みぎのような平板・かつ一応の解釈もなされえよう。しかし、卯波が果して早朝自宅に帰つたであろうかとの事実の判断は、その点の判断資料としての認識が科学的証明に近いほど絶対の信頼に値いするものであれば格別であるが、必ずしもそうでないときは、前夜来の卯波の動静についての事実の判断からこの点を切り離すことなく、むしろ一体として試みられねばならない。結局のところ、本項で扱う事実のみにかかわる甲山P江の供述は、それ自体に内存する前記のような問題点を含むものであるので、その証拠価値を前項までに取り上げた事実関係についての証拠との総合対比において考えざるを得ず、そうであるならば、たやすくこれを卯波の列車顛覆実行行為の肯定、したがつてまたアリバイ否定の資料となすに足ると解することができないのである。

三  八月一三日および同月一五日の国労福島支部事務所における各連絡謀議についての戊野自白

1公訴事実および証拠 これらの謀議について検察官が主張した具体的事実の要旨は、原判決一七頁以下、集七頁の(3)、原判決二一頁以下、集八頁の(7)に記載されているとおりである。ただし、検察官は、右の一五日の連絡謀議について、刑事一審論告においては、それがさきに検討した同月一五日国鉄側謀議と一体をなすものとして、同謀議の中途に丑木が参加して行なわれたと主張したが、原二審論告においては、この両謀議を併せて一個のものとすべき旨の主張はこれを維持しつつも、同日の丑木による連絡謀議が庚崎の退席した後に行なわれた事実は、これを認めた。

この一三日および一五日の各連絡謀議に関する主な証拠は、戊野自白である。

2戊野自白の信用性

(い) その変遷  戊野自白は、その調書作成の日を追つて内容を検討すると、供述変更のあとがはげしくて到底信を措くことができないと考うべきものである。その供述変更のあとの大要を事項別に掲げると、原判決の次の記載のとおりである。

一三日謀議について

(イ) 丑木と同行の有無について(この日戊野が松川から福島に赴き国労福島支部事務所に立ち寄つた事実については、争いがない。)、原判決七三〇頁六行から七三二頁七行まで、集二五二頁二行から二五三頁二行まで

(ロ) 松川出発時刻・謀議の時刻・所要時間・丁沢の出席の有無について、原判決六九五頁五行から六九七頁一行まで、集二三九頁一五行から二四〇頁七行まで

一五日謀議について

(イ) 松川側の出席者(戊野と丑木が一緒に行なつたのか、いずれかの一人が行なつたのか)・その松川出発の時刻・謀議の時刻・庚崎の出席の有無について、原判決五四六頁末行から五五〇頁五行まで、集一八九頁一行から一九〇頁四行まで

(ロ) 壬岡の出席の有無について、原判決六〇一頁三行から六〇四頁二行まで、集二〇七頁から二〇八頁一〇行まで

ところで、戊野自白の内容に関連する一三日および一五員の出来事として、証拠上確かな事実はどうかというと、(ⅰ) 前記のように戊野が一三日に松川から福島に赴き国労福島支部事務所に立ち寄つた事実は争いなく、一〇月二四日押収された不定時入出門票によると、戊野がこの日松川工場を出門した時刻が午前一一時であることが確認され、したがつて戊野は、松川発一一時一五分福島着一一時四二分の列車で福島に赴いたものと推認される。(ⅱ) 同日丁沢が国労福島支部事務所を出て、福島発午前一一時二八分、松川着一一時五五分の列車で松川工場に赴き午前一一時五八分頃同工場に入門したことは、<証拠>によつて明らかである。なお、丁沢が同日松川工場に赴いたことは9.2付丑波G子ほか一名作成の捜査報告書によつて既に報告されていた。(ⅲ) 一〇月二四日押収された寅口メモによると、一三日松川工場において午前一〇時から午後〇時四五分までの間労組対同工場卯上課長の団体交渉開催要求の交渉が行なわれ、そこに丑木もはじめから出ていたか、終りまでいたかは別として、ともかく出席したこと、一五日同工場において労組対辰下工場長の団体交渉が午前一〇時三〇分から行なわれ、その午前の団交の席に丑木も出席し、午前の最後の発言者として記録されていること、この日戊野が午前も午後も右の団交に出席したことが明らかである。(ⅳ) 壬岡が一五日には米沢市の妻の実家に行なつていて福島市にはいなかつたことが、二四年九月末頃から一〇月はじめ頃までの捜査によつて明らかとなつた。なお、(ⅴ) 庚崎自白においては、一五日の国鉄側謀議の時刻に関する最終的な供述が「午前一一時頃からはじまり同一二時一寸前頃に終つた。」ということになつた。

戊野は、自白をはじめる前は、少なくとも一三日の行動に関しては右事実に合致する供述をしていた。同日朝松川工場労組執行委員の巳山H吉が逮捕され、戊野の供述はこれに結びついた正確な記憶によるものである。しかるに戊野がこの供述を変更して、出発時刻・午前中国労事務所にいた時間、丁沢と隣席して同人が中座したとするなど、明らかに誤つた事実を含み、かつ記憶に反する最初の自白をするようになつたのは、原判決七〇一頁二行から七〇六頁まで、集二四一頁一七行から二四三頁一三行までに記載のとおり取調官の誘導によるものと考えざるをえない。また戊野が一三・一五の両日に関するはじめの自白を前記のように幾変転させるに至つたのは、取調官の側において捜査の進展について入手した前記の新たな資料に基づく示唆誘導によるものもあろう。事実の認識の仕方・記憶力には人によつて差があり、また記憶の再生再認の過程においては忘却・変容・錯覚などの混乱を避けることのできない場合がある。したがつて正確な資料に基づいてある程度の示唆をあたえ、記憶の混乱を是正させるのは取調官としては当然なすべきで、そのこと自体は何ら責めらるべきではない。しかし、戊野が自白前の供述を変更してはじめの自白をするようになつたのは、そのような原因によるものではない。のみならず、記憶の是正ないしは補充訂正といつても、事柄の内容・性質・軽重からして当然限度があると云うべきで、事柄によつては通常記憶違いなど起りそうもないと考えられるものがある。戊野自白の内容とその前記のような変化のはげしさをみると、これを一概に記憶の補充・訂正として看過することのできないものがある。その最たるものは、前引用の表に見られるように、たとえば、一三日謀議参加につき丑木を同行したか否かという点で三回も供述を変えて四様の供述をしたこと、一五日謀議のてんまつの供述が、自ら出席しての体験によるか、それとも丑木からの報告聴取によるものか(この後の点については、なお、後出6(に)参照)という点などである。戊野自白は彼自身の記憶に基づくものではなく、戊野が取調官の誘導に従つて、取調官の意のままに供述したものと考えざるをえない。これは戊野10.28午川調書二三項の二の彼自身の供述。その内容は原判決五八一頁九行から五八二頁五行まで、集二〇〇頁一四行から一七行までに記載のとおり)からも明らかに看取することができる。そうだとすれば、戊野自白は到底これを信用することができないと考えるのが相当であろう。

以上の判断に反して、控訴人は、戊野自白の信用性について縷々陳述する。しかし、戊野の一三日出発時刻と丁沢の在否との点に関し戊野の記憶が「浮動的」であつた旨の主張は、さきに説明したように戊野の自白前後の供述を比較対照すれば、当を得ない。この点を変更した後の供述が、「客観的事実」に符合するに至つたからとて、その事実が証拠によつて捜査官に知れる以前に戊野の記憶として述べられていることでもあるから、そのことを取り上げて、その余の事項に関する前指摘の不合理を無視して、謀議の事実に関する供述を信用すべきであるとする所論は、採用しがたい。両謀議を通じて戊野と丑木R作との同行の有無についての供述変更の理由について、前記午川調書中の戊野の供述と同様の論旨ないし「一部錯誤」という見方についても、また同じである。

(ろ) 顛覆謝礼金自白  この点に関する自白は、戊野自白からはじまつて、順次巳下・癸木・午山・辛田に波及した。その供述内容および経過は原判決八六三頁四行から八七五頁九行まで、集二九五頁一三行から二九九頁末行までに記載のとおりである。そこには、謝礼金の出所、戊野らが辛木からそれを渡されたときの状況、各人が渡された金額、戊野の使途などが微に入り細をうがつてまことしやかに述べられ、しかも形を変えつつも11.9唐松調書に至るまで執拗にくりかえされている。しかるにこの謝礼金の授受については何らの裏付もえられず、原二審判決によつて虚偽架空のものと断定され、検察官もこれに対して反論をなしえないのである。この謝礼金の授受は、犯罪事実自体に関するものではないが、その存在を窺わせる重要な事実であることに変りはない。それが以上のように架空のものであつたとなると、犯罪事実に関する自白の信用に大きな影響を及ぼすことを否定できない。戊野も10.24未谷調書、10.25未谷調書では、この点に関する自白を一応全面的にひるがえし、金の件は間違いであつた、取消して下さい、と云う趣旨の供述をしている(それは、戊野の起訴の日である一〇月二六日の直前にあたる。なお一〇月二四日には寅口メモなども発見されている。)のであるから、検察官はおそくもこのあたりの時点で、戊野の犯罪事実に関する自白の信用性について、あらためて検討をし直すべきであつたと考えられるのである。

(は) 謀議の場所  戊野が一三日および一五日の各連絡謀議がなわれたという国労福島支部事務所の状況が、そのような謀議の行なわれる場所としてふさわしくないと考えられ、一五日の状況もそうであつたことについては、庚崎自白の検討をした際(前記二、2、(1)、(ろ))に述べた。一三日の状況も、原判決六四四頁九行から六九一頁一行まで、集二二二頁一〇行から二三八頁七行までに記載のとおりであつて、そこで戊野自白にあらわれているような謀議が行なわれたとは考え難い状況であつたのである。

3戊野自白の支えとしての資料

戊野自白がそれ自体としては到底信用に値いするものでないことは以上で明らかにしたが、検察官によつてその支柱として援用された幾つかの資料がある。その一つは、ここでもまた寅葉自認である。しかし、寅葉自認はそのような力をもつものではない。この点に関する寅葉自認といわれるものの内容およびそれが戊野自白の支柱として役に立つものでないことは、原判決七三三頁二行から七三九頁まで、同六三七頁から六四二頁一〇行まで、集二五三頁六行から二五五頁一二行まで、同二一九頁一五行から二二一頁一五行までに記載のとおりである。

その他、一三日戊野と丑木の二人が午前一一時頃松川工場を出て福島に向つたとの趣旨の午山および辛田の各供述(原判決九九六頁、九九七頁、集三四三頁に記載のもの)および同日国労福島支部事務所で乙川に会つたような記憶があるとの趣旨の壬岡供述(原判決一〇八三頁、集三七一頁・三七二頁に記載のもの)がある。これらはいずれもそれ自体戊野自白の支柱たりうるものとも考えられないが、いずれにしても前二者は丑木の一三日アリバイを検討する際に、後者は乙川の一三日アリバイを検討する際にそれぞれ譲る。その他に、戊野自白の支えとなると考えられるものは存在しない。

4乙川B雄の八月一三日のアリバイについて

(い) 双方の主張と問題点  乙川は、一三日連絡謀議に参加したとして起訴された。その主たる証拠は、戊野自白である。

乙川は、終始右の事実を否認し、八月一二日に同日郡山市署事件で逮捕された国労福島支部副委員会己原I夫の釈放運動のため郡山市に行き、国労郡山分会事務所に泊り、一三日は終日同市内に居て己原らのため食事の差入・ビラ書きなどをし、その晩は同分会委員の酉野J雄方に泊つたのであつて、同日福島に戻つたことはない、との趣旨のアリバイ主張をした。

これに対して検察官は、乙川が八月一二日に郡山市に泊り、したがつて一三日朝も同市にいたことおよび同日夜も同市に泊つたことは認めるが、乙川は同日午前中に郡山市から福島に帰り、国労福島支部事務所で行なわれた謀議に参加し、同日午後再び郡山に赴いた、と主張した。

乙川が一三日朝郡山にいて、正午頃までに国労福島支部事務所に赴くためには、おそくも午前一〇時一七分郡山発同一一時四二分福島着の列車に乗車しなければならない。その後の下り列車は午後一時二二分郡山発である。

(ろ) 乙川のアリバイに関する証拠

同日の朝から正午頃にかけての乙川の行動に関する資料としては、次のものがある。

(イ) 来訪者芳名簿と酉谷供述  その内容は、原判決一〇二二頁四行から一〇三〇頁九行まで、集三五一頁一一行から三五四頁一〇行までに記載のとおりである。ただし、芳名簿の記載の内容は、控訴人当審第二回準備書面P222に書かれている表のとおりである。そこで指摘されている原判決の誤記を右表の記載のとおり訂正する。

(ロ) 戌原K美供述 同供述の内容および酉谷供述との合致点は、原判決一〇五三頁一行から一〇五六頁三行まで、集三六一頁八行から三六二頁一〇行までに記載のとおりである。

(ハ) 己原I夫供述 私が郡山市署に勾留されておる間乙川C美、庚崎W夫、酉野J雄、亥崎L郎等よりしばしば差入がありましたが何時誰が何んな物を入れてくれたか記憶ありません。カツ丼が一回差入になつた事がありますが誰が何時入れてくれたか記憶にありません。ただその時間が昼食の時であつたと云う事は記憶しております。私は勾留されておる中写真を取つた日か指紋を取つた日か記憶しませんが同署の廊下の所におつた乙川C美を見かけた事があります。

前記のとおり、己原I夫は当時郡山市署に勾留されており、乙川はその救援活動をするため郡山に赴いていたのである。右はその己原の供述から関係部分を抜き書きしたものである。なお同人は、刑事一審四九回公判証人として原判決一〇五九頁末行から一〇六二頁五行まで、集三六三頁一六行から三六四頁一六行までに記載のとおり証言をしている。

(ニ) 甲沢M介11.10壬木調書 その記載内容は、原判決一〇三二頁六行から一〇三三頁二行まで、集三五五頁二行から五行までに記載のとおり。

(ホ) 酉野K美11.10壬木調書 その記載内容は、原判決一〇六二頁六行から末行まで、集三六四頁一七行から三六五頁一行までに記載のとおり。

(ヘ) 警備勤務表

(ト) 乙川から己原I夫の妻に宛てた手紙

芳名簿のなかの八月一三日の欄に記載されている乙川の四個の氏名のうちの二番目ものが己原I夫らに対する昼食の差入れのためのものであることは、一番目のそれの用件の欄に「己原他二名朝食差入」と記入され、二番目の用件欄に「己原I夫外一名差入ノタメ」、最後のそれも「己原I夫、乙野N作差入」と記入されていることから明らかである。酉谷供述によると、右の二番目の乙川の氏名は、酉谷が記入したものである。酉谷は、その記入をするに至つた事情として、同日酉谷は乙川と同道して午前一〇時三〇分頃国労郡山分会事務所を出て己原らに対する昼食の差入れのため郡山市署に向つた、その途中世界とか新世界とかいう店に入り、差入用のカツ丼二個を注文した、すると乙川は、俺はまだ朝飯を食べていないからと云つて、カツ丼一個を注文して食べた、乙川がそれを食べているうちに差入れのカツ丼ができたので、酉谷はそのカツ丼二個を持つて乙川より一足先きに店を出て郡山市署に赴いた、乙川は食べ終つたらすぐ市署に行くと云つた、酉谷は市署の玄関に備付けの訪問者名簿(芳名簿)に自分と乙川の氏名を記入した、しばらく待つていると乙川が来た、という供述をしている。右の酉谷の供述のうち、酉谷が他一名と同道して、大体酉谷の云う時刻に飲食店の「世界」に赴き、そこでカツ丼三個を注文し、そのうち一個は一人が店で食べ、二個は差入用として持つて出た点は、戌原K美供述によつて裏付けられ、酉谷が郡山市署の受付で芳名簿に自分の氏名と乙川の氏名を、乙川が後から来る旨立会いの巡査に告げて記入した事実は、甲沢M介供述によつてそのままの裏付けがなされている。そして甲沢M介供述によると、酉谷が同市署を訪れて玄関備付の芳名簿に右の記入をした時刻は、甲沢巡査が受付の警備についていたという午前一一時から一二時までの間のことであることがわかる。控訴人は当審第二回準備書面P227において「警備勤務表をもとに検討するときは、甲沢巡査の勤務時刻に関する供述は、思違いであると考えられる。」と主張する。しかし右勤務表には、肝心の八月一三日正午までの分が欠けているので、控訴人がそう主張する理由を理解することができない。甲沢供述および右勤務表によると、その頃同市署では警備係巡査が数班に分かれ、各組二名の一時間交替で玄関の受付および警備に当つていたことを認めることができる。甲沢M介の供述の中に、一三日午前一一時から一二時まで警備に当つたとの時刻の点について、記憶がたしかでなく一時間ものずれがあることを窺わせるものは全くない。同巡査を取調べた検察官は、正にその時刻の点が重要であることを意識していたはずであるから、この供述に疑いを懐いたならば、同人に当つてその記憶に間違いがないかどうかをたしかめたであろうし、他にもそれをたしかめる方法はあつたであろう。それにもかかわらず、明確に「午前一一時から正午まで」と書かれ、それが思違いであることを窺わせる資料が全く存在しない甲沢供述について、その正確性を疑う理由を見出すことができない。また、酉谷がその際郡山市署において見聞した事実に関する酉谷供述は、己原I夫の供述および酉野K美供述によつてほぼ裏付けがなされ、またこの点に関する乙川の供述も大要において酉谷供述と合致しているのである(原判決一〇五八頁一〇行から一〇六七頁五行まで、集三六三頁八行から三六六頁一〇行までに記載のとおり)。以上のように、八月一三日の己原I夫に対する昼食の差入れに関する酉谷供述は、証拠による裏付けがなされていて、その信用性を疑う理由はないように思われる。

控訴人は原審第四回準備書面P414・415において、酉谷供述は必ずしも全面的には信用できないといい、その理由として述べているところは、乙川が飲食店の世界までは、酉谷供述のように、酉谷と行動を共にしたとしても、その後乙川が郡山市署に赴いた事実に関する酉谷供述が信用できない、とするもののようである。しかし、前記のように酉谷が郡山市署の玄関に入つた時刻は午前一一時以後である。そして控訴人は、世界と郡山市署は極めて近い距離にあるといい、原審証人丙原O代の証言によると、その間は徒歩五分位のものである。そうすると、酉谷が世界を出た時刻は、早くても午前一一時頃、午前一〇時五五分より後と認めざるをえない。そしてそのときは乙川がまだ世界に残つてカツ丼を食べていたというのであるから、乙川がそれから午前一〇時一七分発の列車に乗ることは不可能であつたし、汽車でなくバスによるとしても、丁崎P平25.8.3丁崎Q吉調書によると、バス郡山発時刻は、八時・一〇時・一三時であり、福島まで所要九〇分であつたから、正午頃までに福島駅前の国労事務所に到着することはできなかつたと認めざるをえないである。

控訴人は、当審第二回準備書面224以下において、酉谷供述につき昼食差入れにつき「いかにも詳細に供述しているが、これはまことに不自然なことである。」という。酉谷供述の信憑力を確めるために検察官が詳細に聴き取つたまでのことであるとすれば、そのゆえに供述記載を不自然と評することは、許されまい。つぎに、己原I夫が写真を撮られているのを目げきしたという乙川と酉谷の各供述を比較して、その不一致のゆえに、「一体これが己原が郡山市警察署の内庭で写真をとられたという一個の事実について両立しうる供述であろうか。」とし、乙川供述は、はるかに客観性を有するが、酉谷の供述は、事実に反する、という。しかし、己原I夫の写真撮影の日時が、原判決一〇六三頁にあるように、一三日午前中で朝でないときと、一五日午後の二回であるならば、その前者は、酉谷が昼食差入れのときに見分した旨の供述に該当し、酉谷供述は、信用に値いするとともに、乙川がこれを見た旨の供述自体を正しいとする以上は、それが朝食差入れの時であつたとする乙川の供述部分のみが記憶違いということになろう。控訴人は、この点についても、「己原の写真撮影の際の状況のごとき事実は(中略)、ただ一回のしかも特異な事実であることが明らかであるから、これについて何ら記憶の混乱を生ずる余地は存しない。」という(前掲P226)。しかし、乙川自身が被写体であつたわけでなく、他人が夫れであつたのを見たというだけの場合であり、しかも乙川が昼食差入れに酉谷と同行したことを忘れていたとすれば、昼のときの経験を朝のときの夫れと混同し、そのときの付加的情景について、記憶の鮮明なときの夫れと混同することは、経験則上ありえないことではない。ここで重要なことは、己原I夫が郡山市署内で写真を撮られていること自体を目げきした、という記憶について、乙川と酉谷の供述の一致することである。そうして、その時間が朝でない午前中であることが確実と見られる以上(この点は、原判決一〇六二頁・一〇六三頁の示すように、酉野および己原供述のほか、酉谷が岩代熱海からの汽車で午前九時か一〇時に郡山へ出て来てから、飲食店を物色し、そこで差入品を調えて後のことであるから、酉野および己原供述からする時刻の判断が酉谷供述のそれと合致するのは、自然である。)、酉谷が乙川とともに写真撮影の場を目げきした旨の供述は、十分信用に値いする。また、時間と情景の点を除いての、この点に関する乙川供述もまた、その限りで、正しいことになる。結局、乙川は酉谷と同行して己原のために昼食を差入れるべく郡山署に赴いたために、己原の写真撮影の場に際会したものであり、ただ乙川は、みぎ前段の事実を忘れていたために、全くこれを述べず、後段の事実についてこれと異なる時刻における経験であるかのように記憶違いを供述した、ということになろう。そうしてまた、このような形での酉谷および乙川供述の表見的不一致は、それ自体両者の信用性を損しないばかりでなく、その間に通謀はもちろん、酉谷の側からする片面的な虚偽の陳述のなかつたことを推測させるものがあるようである。

更に控訴人は当審第二回準備書面P227・128において、「酉谷供述において、その日世界まで同人と同道し、世界でかつどんを注文してたべたという者は乙川ではないということも十分根拠のある考え方である、」と主張し、その理由として、(イ) 乙川が世界でかつどんをたべたのが午前一一時頃とすると、乙川がその後早くも二時間後の午後一時頃にはその間座業しかしていないのに昼食のパンの用意をしたという(同準備書面P219一五行からP221一〇行までの刑事一審における乙川の主張参照)のが不合理であり、また己原I夫らに対する朝食の差入れの前後に朝食をとる機会があつたと思われるのに午前一一時まで朝食をとらなかつたということは不自然であること、(ロ) 乙川自身が、その日酉谷と同道して世界に行き昼食の差入れをした事実を全く述べていなかつたこと、(ハ) 世界に酉谷と同行した者が乙川であるという証拠は、酉谷供述以外にはないことなどをあげている。しかし(イ)については、乙川はその日郡山分会事務所に泊り己原らの救援活動のためあちこち奔走していたのであるから、食事の時間が不規則になるのは当然で、控訴人主張のようなことがあつても不自然ではなく、不合理でもない。(ロ)については、前記乙川供述調書および来訪者芳名簿の記載(乙川の問題の署名部分)をのぞいた部分によれば、乙川は八月一二日から同月一六日まで毎日少なくとも一回、多い日は三回にわたつて己原I夫・乙野N作らに対する面会ないし差入れのため郡山市署を訪れていた事実が認められるのであつて、このように毎日同じようなことを繰り返えしていれば、その内のどれかを忘れてしまうとか、他の日のことと混同してしまうとか記憶の混乱が起きるのは当然で、それを逐一正確に記憶していたとしたら、それこそかえつて不自然であろう。したがつて、乙川が己原の差入用のカツ丼を注文するため世界に赴いたことを供述していなかつたとしても、同人がそこに行なつた事実を否定する材料にはならない。(ハ)については、控訴人は乙川が酉谷と共に世界に立ち寄つた事実は、酉谷供述以外に証拠がないというが、前記の戌原供述によると、酉谷供述の中のその際の同行者が乙川である点を除いたその余の事実、すなわち酉谷がその際他一名の者と同道して世界に行つた事実は、少なくともこれを否定することができないであろう。そして、その同行者が乙川以外の特定の人であることを証明する資料もまた全く存在しないのである。のみならず、酉谷がこの点について、乙川のアリバイ作りのため虚偽の供述をしていることを疑わせる資料はないのである。控訴人の主張は根拠のない憶測にすぎない。

(は) 八月一三日の乙川の所在に関するその他の証拠について  同日乙川が国労福島支部事務所にいたと述べている供述証拠があること、その内容およびそれがいずれも信用に値いしないことについては、原判決一〇六八行から一〇八五頁一行まで、集三六六頁末行から三七二頁一〇行までに記載のとおりである。

5丑木R作の八月一三日のアリバイについて

(い) 問題点  同日東芝松川工場においては、当時同工場において行なわれていた企業合理化に伴なつて生ずる解雇者の就職斡旋依頼のため、工場長の辰下D作が事務課長の戊田Q吉を伴なつて二本松および福島の職業安定所に赴き工場を留守にしていた。同日午前同工場労組は組合長の辛木以下多数の組合員が、天王原工場事務所において生産課長卯上C介に対し、団体交渉の開催を要求するための交渉をし、この交渉は午前一〇時から午後〇時四五分まで行なわれた。

戊野の最終自白調書(その内容は、原判決九一四頁二行から九一九頁四行まで、集三一二頁一二行から三一四頁七行までに記載のとおり)によると、戊野ははじめ右の団体交渉の開催を要求する交渉の席に出ていたが、一五分位でそこを中座し、組合事務所に行き、午前一一時頃丑木と共に同事務所を出て、同一一時一五分松川発の列車で福島に向つたというのである。同日戊野が午前一一時同工場を出て、右の列車で福島に赴いた事実が証拠上明らかなことは前に述べた。ところで、丑木が右の団体交渉要求の交渉の席に出席した事実は、はじめから出席したかどうかの点は別として、次に掲げる証拠によつて明らかである。もしも丑木が右の列車に間に合うぎりぎりの時刻すなわち午前一一時一〇分頃より後の時刻まで、この交渉の席に居た事実が明らかになれば、戊野自白のこの部分は事実に反するばかりでなく、丑木が一三日連絡謀議に出席した事実もなかつたことになるわけである。

(ろ) 団体交渉開催要求の交渉が午前一〇時から午後〇時四五分まで行なわれ丑木もそこに出席したこと。  この事実は次の証拠によつて明らかである。内容はいずれもそこに掲げた原判決の記載のとおりである。

(イ) 己岡R夫供述 原判決九三四頁六行から九三六頁一行まで、集三二〇頁一二行から三二一頁三行まで

(ロ) 丑木A雄供述 原判決九四三頁三行から九四四頁末行まで、集三二三頁一一行から三二四頁七行まで

(ハ) 寅口メモB 原判決九五〇頁一〇行から九五三頁四行まで、集三二六頁七行から三二七頁一五行まで

(ニ) 寅口B郎供述 原判決九五三頁五行から九五五頁七行まで、集三二七頁一六行から三二八頁一二行まで。寅口10.24丑木調書にも同旨の記載がある。

(ホ) 丑木R作供述 原判決九七一頁六行から九七三頁七行まで、集三三四頁一六行から三三五頁一三行まで

すなわち寅口メモB(その筆者・性格などについては、原判決八六頁八行から八七頁六行まで、集三一頁一〇行から一五行までに記載のとおり)にはこの交渉が午前一〇時から午後〇時四五分まで行なわれ、そこに丑木も出席した旨の記載がある。その時刻の記入は、寅口が事務机のすぐ前にある柱時計を見ながらした、というのであるから正確なものと見てよい(寅口が文芸春秋の寄稿の中でいう「狂いに狂つたスイス製の腕時計」によるものではない)。丑木A雄が八月一五日のこととして述べているのは、内容を見ると同月一三日のことであつて、日の点は記憶が混乱していたのであろう。また丑木R作が日時は記憶がない、と云つて述べている事実も同月一三日の出来事である。丑木が松川に来たのは同月一一日であつて、その後同月一四日以前に天王原工場の会社事務所で「団体交渉を開けという予備交渉の様な交渉」が行なわれた日が同月一三日であることは関係人のひとしく認めている事実である。以上(イ)ないし(ホ)によつても、丑木がこの交渉の席に、はじめから出たかどうかは別として、とにかく出席した事実が明らかである。

(は) 丑木はこの交渉の席にいつまでいたか  前記の(イ)己岡R夫供述の中には、丑木がこの交渉の席におそくなつて出席したが、理路整然とした発言をし、会社側が丑木の要求によつて「今日は交渉は開けない」という意味の書面を書いて組合側に交付して交渉が終わつた、との趣旨の事実があらわれている。これによると、丑木がこの交渉の終わりの頃までその席にいたことが窺われる。のみならず、丑木が少なくとも午後〇時一〇分を過ぎるまでこの交渉の席にいた事実が次の証拠によつてたしかめられる。

戊田Q吉10.29庚井調書の原判決九八二頁以下、集三三八頁以下が引用する部分のあとの次の記載

福島職業安定所から私が申込んで松川の警備室と連絡し暫らく待つて寅口事務課長補助に出て貰いました。その時刻は安定所に着いたのが一二時頃だと思いますので一二時一〇分よりは過ぎていたと思います。

寅口B郎10.28庚井調書

一二時頃と思いますが警備員が電話がかかつて居ると呼びに来たので警備室の電話に出ますと福島に居る戊田課長からで状勢を知らせと云うので其の時警備室内外に組合員が約二十名監視して居りましたので一般組合員は比較的穏やかだが今卯上課長団体交渉をしていると伝えました(中略)事務所に帰つてみると卯上課長は何にか書面にしたためて居る処でありました、一札入れた様でしたが辛木は更に何か要求しました、課長は又一札入れました、すると辛木らは囲を解いて表口から職場に引揚げました、その時刻は柱時計で確めた処では午後〇時四十五分でありました。

すなわち、前記のように戊田はこの日辰下工場長と共に二本松に行き、そこから午前一一時四二分福島着の列車(戊野が松川から乗つた列車)で同市に行つたのである。戊田らは福島に着くと、その足で福島職業安定所に赴き、同所から松川工場の寅口に電話をして工場の様子を尋ねたわけである。したがつて戊田が電話をした一二時一〇分過頃という時刻の点は正確で、寅口の供述も大体これに合致している。そして寅口の供述によると、寅口が電話から帰つた後に卯上課長が辛木に一札を入れ、更にまた一札を入れたというのであるから、寅口メモBに記載してあるNo.1とNo.2の書面が授受された時刻は、いずれも〇時一〇分過以後であつたと認められる。そしてこの点の丑木自身の供述は前記(ホ)に引用の原判決の記載のとおりであつて、これによると、丑木がこの日この交渉の場に出席していて、卯上課長が辛木に対し団交開催を拒絶する趣旨の書面を交付した場面を目撃していた事実を否定できない。控訴人も少なくとも卯上課長がNo.1の一札を辛木に交付したときまでは、丑木がそこにいたことを認めている。そして右のNo.1の一札が授受されたのは、午後〇時一〇分過より後のことであつたのである。以上によれば、丑木が一三日午後〇時一〇分より後まで松川工場事務所にいた事実が明白である。

(に) この丑木が戊野の福島行に同行しなかつた事実を裏付ける他の証拠

この点についてなお次の証拠がある。

辰下D作および戊田Q吉の各供述(原判決九八二頁四行から九八四頁六行まで、集三三八頁一四行から三三九頁九行までに記載のとおり)

すなわち、この日福島駅で下車した辰下と戊田は、同駅前で戊野が一人で歩いているのを見かけたのである。丑木の同行の有無が問題になつているときの供述であるから、両名が「戊野が一人で歩いたいた」というのは、他に同行者らしき者はいなかつた、という趣旨であることが明らかである。これらの供述も、同日丑木が松川工場にいたこと、戊野の福島行に同行しなかつたという前項(は)の事実を裏付けるものといえよう。辰下らにとり、丑木が「当時路傍の他人同様でしかなかつた」とか、「戊野に気をとられた両名としては、連れの存在を明かに認識せず、その結果記憶に残らないのも当り前」ということは(控訴人当審第二回準備書面P150)、右の場合相当でない。

(ほ) 控訴人の援用する証拠について

控訴人は原審第四回準備書面P386・387の(四)において、丑木が前記交渉の途中から退席した事実に関する証拠をあげているが、これらのものはいずれも、次のように丑木の一三日アリバイに関する反証たりうるものではない。

(イ) 乙野S雄供述 その内容は原判決九九四頁七行から九九五頁五行まで、集三四二頁一〇行から一四行までに記載のとおり、乙野のこの供述がたしかな記憶に基づくものでないことは、その記載自体からわかるし、交渉が正午前に終わつたとか、そのとき戊野が居つた様に思うとか事実に反する部分もある。前記アリバイ証拠による心証を左右するに足りない。

(ロ) 午山、辛田、丑口U江の各供述

その供述内容およびそれがいずれも丑木アリバイに関する反証としての力を持つものでないことは原判決九九六頁五行から一〇〇七頁六行まで、集三四三頁三行から三四六頁までに記載のとおりである。

(ハ) 壬岡C介、癸波T郎の各証言 その内容およびそれがいずれも丑木アリバイに関する反証たりえないことは原判決一〇〇七頁八行から一〇一三頁初行まで、集三四七頁から三四八頁に記載のとおりである。

6丑木R作の八月一五日のアリバイについて

(い) 問題点  第二次戊野自白によると、八月一五日は東芝松川工場の工場長室において午前も午後も労使間の団体交渉が行なわれ、丑木は午前の団交に組合側の一員として出席していたが、午前一一時頃その席をはずして出て行つた、八月一三日謀議の際に丙谷から「具体的な打合せは一五日の昼頃また此処国労福島支部事務所でやりたいから是非集つて貰いたい」と要請されていたから、丑木がこの時刻に間に合うように福島に向つたものと思つた、ということになつている。そして、同月一五日同工場長室において団体交渉が行なわれ、午前の交渉に丑木が出席した事実については争いがない。戊野が、約束の時間に間に合うように丑木が福島に向つたものと思つたというのは、午前一一時一五分松川発の列車に間に合うようにという趣旨であろう。したがつて、ここでもまた丑木が午前一一時一〇分頃より後まで団交の席に出ていたかどうかが問題となる。

ところで検察官は、刑事一審および原二審においては、八月一五日の国労福島支部における連絡謀議が午後〇時半頃終了した、と主張していたが、差戻後二審において、この主張を変更し、丑木が正午頃から午後一時頃までの間謀議に参加した、と主張した。第一次戊野自白においては、同謀議が午前一〇時頃からはじまつて約二時間行なわれた、ということになつていたが、第二次戊野自白においては、戊野が同日夜丑木から聞いたという同人の報告の中に、同謀議が午後一時以後まで行なわれた点は出ていない。したがつて差戻後二審における検察官の主張は根拠のうすいものといわざるをえない。のみならず、松川発の右の列車の後の列車は午後二時二二分発であるから、これではいずれにしても検察官主張の謀議の時刻に間に合わない。バスはどうかというと、<証拠>によると、松川発が一二時三〇分、福島駅前着が一二時五八分(その前は松川発一一時五分、その後は同二時)で、これに乗ると国労福島支部事務所に着く時刻は検察官主張のぎりぎりの時刻になるが、丑木が一一時一五分の列車で福島に赴いた趣旨の戊野自白と矛盾する。しかし、ともかく、八月一五日の丑木の行動に関する証拠を検討してみることにする。それは丑木の一五日アリバイの成否に関して重要であるばかりでなく、第二次戊野自白のなかの同日の丑木の行動と対照することによつて、同自白の信用性を判断する資料とすることもできるからである。

(ろ) 丑木の同日正午までの行動

同日丑木は午前の団交が終つたとき、すなわち正午までその席におり、したがつて午前一一時一五分松川発の列車に乗らなかつた、と認めるのが相当である。そのように判断する理由について、原判決の次の記載を引用する。

八六頁四行から一四二頁九行まで、集三一頁六行から五一頁九行まで

一七九頁末行から二一一頁四行まで、集六三頁一三行から七五頁一行まで

二二〇頁九行から二四四頁末行まで、集七八頁一五行から八七頁四行まで

二五一頁九行から二六四頁九行まで、集八九頁一行から九三頁八行まで

二七七頁五行から二八五頁一行まで、集九七頁一一行から一〇〇頁六行まで

すなわち、寅口メモによると、八月一五日は東芝松川工場において労使間の団体交渉が午前から午後にわたつて行なわれ、午前の団交に丑木も組合側の一員として出席し、丑木が午前の最後の発言者として記録されている。そのとき組合側で団交の経緯を記録した乙野メモにも、同様の記載がある。午前の団交は、それが九時半にはじまつたか、一〇時半にはじまつたかは別として、ともかくその頃から正午のサイレンが鳴るまで行なわれた。もとより右のメモの記載自体は、丑木が午前の団交の席に最後までいたか、それとも途中で退席したかについての決定的な証拠を提供しているものとは認めがたい。しかし、寅口メモの午前の終わりの部分の筆記者の戊田Q吉の供述からは、丑木の最終発言ののち午前の団交が正午のサイレンによつて打ち切られるまでの間に、メモに値いしない問答が五〇分もの間続いた事実を到底読み取ることができない。むしろ同供述調書の記載を素直に読めば、それは、最後に丑木の長い発言があつて、戊田がこれを寅口メモの午前の最後の部分に記録し終わつたときに午前の交渉が終わり、そのときには丑木がまだその場にいた、という趣旨に理解するのが相当であろう。右の戊田供述の趣旨は、両メモの午前の最終部分の記載内容および記載の仕方と、午後のはじめの部分の記載内容とを対照して考えることによつてもたしかめられる。すなわちこれによると、午前の最後に丑木が、解雇について個人別の具体的な解雇理由を示すべきである、という趣旨の要求をしたのに対して、会社側がその回答をしないうちに午前の交渉が打切られたことおよび午後の交渉のはじめの頃に組合側が会社側に対してその回答を求めた事実が窺われるのであつて、これによつても午前の丑木の最終発言の後交渉が打ち切られるまでの間に五〇分もの記録に値いしない発言が続いたとは到底考えられないのである。一〇月下旬から一一月はじめにかけて、団交出席者に対する取調べがなされたもののうち、乙野S雄(乙野メモの筆者)が、丑木の中途退席を示すような供述をし、また工場長の辰下D作が「丑木が途中で居なくなつたように思う」という趣旨の供述をしているが、乙野の供述は、明確な記憶に基づくものと考えられず、辰下の供述は、午後に行なわれた交渉内容の一部が午前に行なわれたと思違いをしたうえの供述であると考えられるので、いずれも丑木の途中退席の事実を証するものとして採用しえないものである。他に丑木の途中退席の事実を証するに足るものはない。さきに引用した原判決の記載を要約すると、以上のとおりである。

なお、寅口B郎35.2.13庚井調書の記載内容もたやすく信用すべきではない。その記載内容およびこれを信用すべきでないとする理由は、原判決一五〇頁三行から一五六頁八行まで、集五三頁末行から五六頁四行までの記載のとおりである。ところで丑木は、この日の午前の団交の模様について11.4庚井調書の四項で述べている。一五日のことであつたかどうか記憶にはつきりしないとことわつたうえでの供述であるが、その内容を見ると、一五日午前の団交について述べていることが明らかである。丑木はそこで「其の交渉はピリオドではなくカンマで打切られたと言う意味は最終結論が出ないで打切られたと言う記憶があるのです」と言つている。これは、丑木が出した午前の最後の要求に対して、会社側からの回答があたえられないまま、交渉が打ち切られたときの丑木の気持を表現したものと見てよいであろう。

(は) 丑木の同日午後の行動に関する証拠  この点に関する捜査段階における証拠としては、次のものがある。

(イ) 午下O子9.23丑木調書 そのうちの関係部分は、原判決二八八頁五行から七行まで、集一〇一頁一一・一二行に記載のとおり

(ロ) 寅上V介10.28丑木調書、11.2丑木調書 そのうちの関係部分は、原判決二九四頁末行から二九五頁末行まで、集一〇三頁一六行から一〇四頁四行までに記載のとおり

(ハ) 卯波R平9.27丑葉調書 そのうちの関係部分は原判決三一〇頁四行から三一一頁四行まで、集一〇九頁一〇行から一六行までに記載のとおり

(ニ) 卯下W子11.1辰山調書 そのうちの関係部分は次のとおり

(八月一五日)一一時過頃丑口U江さんに福島へ行つてポスターカラーを買つて来るよう言われましたので私は千円位もらつて、一一時一五分の汽車で福島に向いました私は一人行きました(中略)汽車の時間まで福島の町を散歩して二時四八分発の汽車で一人組合事務所に帰りました。事務所に帰つた時丑口U江さんが居たことはハッキリして居りますが、他に誰が居られたか記憶にありません、私は丑口U江さんにポスターカラー等の現品と受取りを渡しました、それから一時間位の間に誰か忘れましたが男の人から「こう言う時には赤が一番目立つ良い色だから赤を買つて来ななければならない」ということを注意されました、私はこの注意した人が丑木さんとばかり思つて居りましたが、よく考えてみる当時丑口U江さん丈けがいたことはハッキリして居りますが、他に事務所に居た人が全然思い出せませんので注意した人が誰であるか全く思い出せません、私が注意されてから丑口U江さんが「癸木さんに買つて貰はう」と言ひ、癸木さんが四時四十分の汽車で又カラーを買ひに行きました

(ホ) 巳川A美11.5庚井調書 そのうちの関係部分は次のとおり

(八月一五日)ビラ書き用のポスターカラーを買つて来ようということになり(中略)卯下さんに(中略)お金を渡してポスターカラーとインクを買つてくるように頼みました、卯下さんは午前一一時の汽車で福島え出て午後三時頃の汽車で帰つて来ました(中略)卯下さんは代金受領書とポスターカラーを六缶入のもの一箱大ビンの赤と青のインクを二ビン私に渡しました、それからしばらく経つてからであつたと思いますが何時来たか記憶がなくそれ迄ずつと居たのではなかつたと思いますが丑木R作さんが組合事務所に居て「卯下W子ちやん色買つて来たかい」と卯下さんに聞いて居りました卯下さんは私の前の机の上からポスターカラーを丑木さんの所え持つて行つて見せていました、丑木さんはそれをみて赤が一番使う色だから赤が一番欲しかつたんだと筆を片手に持ちながら真面目な顔をして言いました、赤色も入つていたのですが一本位で他は密柑色や黄色や青色でした、卯下さんはそんなんだつたら丑口さんが行つて呉れればよいのにと私に聞える様な声で言つて居りました(中略)それで癸木さんに赤色を買つて来て貰うように頼んで金額は忘れましたがお金を渡して午後四時半頃の汽車で福島え行つて貰いました。

右の(イ)の午下O子は、当時丑木が宿泊していた東芝松川工場八坂寮の管理人として、食事の世話などをしていた者であり、(ロ)の寅上V介は、東芝松川労組員で、組合の要件で八月一二日上京して東芝労連に行き一五日朝松川に帰つたものである。右(イ)(ロ)の供述は、丑木の同日正午すぎの行動の一端を示すものとして、無視することができないと考うべきであろう。(ハ)の卯波R平は、当時東芝松川労組の青年部員で、八月一五日午後二時の下り列車(午後二時二二分松川発)で他の部員らとともに福島に赴いてビラ張りなどをしたのであるが、往路に丑木が松川駅まで自転車でビラを運んでくれたというのである。(ニ)と(ホ)の両者の供述は、ポスターカラーの赤の買増しに行かせた情景が、丑木の指示によることに関連して見事に合致していて、その真実性を疑う余地がないように思われる。巳川A美がポスターカラーの赤の買増しを癸木に依頼し、癸木が午後四時四〇分松川発の汽車(正確には四時四二分松川発)で福島に赴いた事実は、癸木の供述調書にもそのままあらわれている。以上の資料も、この日丑木が正午以後も松川工場に居た事実、福島に行つた事実のないことを窺わせるものとして無視することのできないものと言うべきである。

(に) 一五日連絡謀議に関する戊野自白と丑木アリバイ  戊野自白は全体として信用性の薄弱なことはさきに述べたが、殊に一五日連絡謀議に関する部分は全く信を措き難い。戊野は、第一次自白においては、この日戊野が、丑木と共に午前八時半の列車で松川から国労福島支部に赴き、そこで午前一〇時頃から正午頃までの間行われた連絡謀議に自ら参加したものとして、朝の松川駅での二人の出会い・汽車の往復切符の各別購入、謀議の席への参加者の氏名・席順(この中には、後の供述で除かれた壬岡と庚崎とが加えられている。壬岡が当日米沢にいて、福島を離れていたことは、庚崎自白の信用性の項で明らかにした。)・発言者、その発言内容(特に、壬岡の俺も行くのだから大丈夫だとの発言があつたということ、注目される。)などの会合の模様を具体的に詳細に述べ、席順については、口頭で供述したばかりでなく図面まで書いている。そして、この日の帰途福島駅で丑木と落ち合つたとき、丑木が顛覆謝礼金が入つている密柑箱より少し小さい位の風呂敷包を持つているのを目撃したとの趣旨のことまで述べていた。しかるに一〇月二四日寅口メモが押収されてみると、八月一五日は東芝松川工場において、午前から午後にわたつて団体交渉が行なわれ、戊野が午前も午後もこれに出席した事実が明らかとなり、したがつて同日戊野が福島に赴いた事実はなく、戊野のそれまでの供述が全くの虚偽であることがわかつた。そこで捜査官は、早速戊野をして供述を変更させ、一五日連絡謀議の事実は、これへの国鉄側出席者の名前(ここでも、はじめ壬岡を加え、後に除かれた。)の点をも含めて、これに参加して帰つてきた丑木からの報告によつて知つたということにし、その理由として、同月一三日に辛木から「八月一五日には君が行つてくれ」といわれていたので、自分も行つたと感違いした、という趣旨のことを言わせている。しかし、これで捜査官が、戊野の供述変更の理由として人々を納得させることができると考えたとしたら、それはあまりにも安易にして杜撰な証拠判断と言わざるをえないし、変更後の戊野自白は信用できる、といわれてもたやすく同調しえないことは多言を要しないであろう。

そればかりではなく、寅口メモには、丑木もこの日の午前の団交に出席して二回にわたつて発言をし、午前の最後の発言者として記録され、この交渉が午前一〇時半からはじめられたことも記録されている。そして同時に取調べをうけた戊野は、同日の午前の団交が午前一〇時頃にはじめられ正午に終つた、と供述しているのである。そうだとすれば、これらの事実からしても、丑木が同日午前一一時一五分松川発の列車で福島に赴いたという変更後の戊野自白に一応疑問を投ずるのが当然であろう。しかるに検察官は、丑木が同日の午前の団交を途中で退席したか否かの事実を十分調査しないままに、前記変更後の戊野自白中の一五日連絡謀議に関する供述部分を目して、国労と東芝松川労組との連繋上最重要と考えられた同謀議へ丑木R作が出席したことについての証拠が十分であると考えたもののようである。すなわち、みぎ供述部分を含む戊野自白は、庚崎および辛田自白と相まつてこれより先一〇月一三日になされた第一次起訴(甲山・卯波・丑木R作・未山・辰口・壬岡・庚崎・辛田ら八名)についての直接・間接の支えとなるものとし、またさらに、その他の謀議などについてその頃までに既になされていた巳下・午山・癸木らの自白と相まつて、同月二六日の第二次起訴(辛木・戊野・丑木A雄・巳下・午山・癸木ら六名)へ発展する契機となつた。しかしその後の捜査によつても、丑木の右の途中退席の事実を明らかにし得なかつたことは前記のとおりである。

公訴の提起は、公訴事実について裁判官をして合理的な疑いを容れさせない程度の証拠が存在するときに、はじめて許容されるものであることはさきに述べた。一五日連絡謀議に関する戊野自白は、そのように強度の信用性が認められるであろうか。この点に関する検察官の判断については、強い疑問をもたざるをえない。のみならず、これに反して、さきに指摘したように、この日の丑木アリバイに関する証拠は、かなりに強度の信用性が認められるものばかりである。検察官がこれらの証拠をもつてしても、まだ丑木アリバイの成立を認めえないと判断したとしても、それについては合理的な理由がなければならないであろうし、合理的な理由なくしては到底これを無視してしまうことのできないものばかりである。戊野自白の信用性の極度に薄弱なことを考慮すると、このことは一層強くいうことができる。これらのアリバイ証拠の評価についても、検察官の判断には疑問を懐かざるをえない。

四  その他の公訴事実およびアリバイ主張についてその他の公訴事実、すなわち原判決第一章第一節(四)検察官の具体的主張(一三頁以下、集五頁以下)のなかの(2)(4)(5)(8)ないし(12)の各事実についても、その主たる証拠は、これらの事実に関係のもと被告人の自白又は自認であるが、これらのもののなかにもその事実を確認するに足るものはない。これらの自白を信用すべきでないとすることについて、念のため以下その要領を示す。

1(4)の一三日丁沢連絡謀議と(5)の東芝謀議  この日丁沢が一二時近く松川着の列車で福島から来て、直ちに東芝労組事務所に入り、おそくとも三時過ぎの汽車で郡山へ行つたことは、丁沢が自認していた。その間に丁沢から辛木らに対し列車顛覆の計画について協力の要請が行なわれたとする主な証拠は、巳下自白である。この自白も、大きい点で二度変更され、三様の供述が残されており、かつ戊野自白におけると同旨の顛覆謝礼金の自白を含んでいる。巳下は、はじめ巳下10.5、甲川二回調書、同10.6午谷調書、同10.7唐松調書で、丁沢をかこむ辛木・戊野(同人は、当日福島へ行き、その時刻に松川にいないことは、さきに示した)ら東芝側七名の席で丁沢からの協力要請を聞いて辛木が承諾したと述べ、つぎに、同10.11午谷調書では、その日同人が二時過ぎの汽車で福島に行つため、謀議についての丁沢の話しを聞いていないが、翌日朝丑木A雄(この点後に丑木R作からとし、さらに丑木A雄からに復した)から伝え聞いたため、そのことと混同して思い違いしていたとし、最終的に11.5午谷調書、11.19唐松調書では、福島に出かける前に丑口から丁沢来訪の目的が前記計画の連絡である旨を聞いていた旨を述べた。なお、その間同11.17甲川調書では、自分が事務所の机でビラの整理をしていたとき、丁沢が辛木らに対し列車脱線計画に協力してくれと話しているのを傍受した旨を述べている。以上略述した巳下自白の変遷の態様に照らして、戊野自白につきさきに示したと同じような趣旨で、巳下自白の信用性に少なからず疑いを感ぜざるを得ない。なお、午山・辛田らも、巳下ほど明確にではないが、丁沢から前示趣旨の連絡があつたかのように述べ、かつ、これらの三人は、丑口V夫との間において、列車顛覆計画の実行について賛成の意見を交し、前記(5)の謀議をしたと供述したが、いずれも信用すべきでない(この二人も、戊野・巳下におけると同じく、謝礼金自白をした)。

2(9)の一六日寅葉連絡謀議  この日東芝工場に組合大会が開かれ、みぎ大会支援のため寅葉が民青の丁原、丙野らとともに午前一一時五分頃同工場に到り、午後八時半頃終了の大会に終始出席し、その後東芝労組員らと大会批判の懇談会を持ち、九時半過ぎ散会し、その頃の汽車で丁原らとともに松川を去つたことは、寅葉が自認していた。みぎ懇談会の前に、八坂寮内の組合室で、寅葉から辛木・戊野・丑木A雄・丑木R作・巳下・辛田らに対し当時既に協議の成つていた汽車顛覆計画の実行について所要の連絡がなされたとする主な証拠は、戊野自白と巳下自白とであり、後者の自白がさきになされたが、二つとも、この謀議関係でも、供述に変遷がある。巳下は、はじめの自白で、この会合に当初から出席して連絡事項を聞いたとし、後の自白で、自分だけおくれて会合の終わり頃に席に加わつたので、その場では、松川から二人がバール・スパナを持つて現場へ来てくれとの言葉を聞いただけであり、その余の事項は、寅葉らが帰つた後の東芝関係者だけの集りのとき辛木から聞いたと変更した。ここでの供述変更の態様にも、さきに判示した(4)の連絡謀議についての供述変更におけると同様のものが感じられる。また戊野も、はじめ10.16未谷調書および10.17甲川調書で午前十時頃にこの会合があつたとしたのを、10.17午谷調書以後の供述で、午後八時半過ぎに大会が終わり、八坂寮真の間で開こうとした執行委員会が流れた後のことであると変更し、これを思違いであるとしたが、首肯しがたい。なお、巳下も戊野もこの会合に辛田の参加を述べるが、辛田自白には本謀議についての供述を欠く。さらに、寅葉自認とされる11.10辰山調書、11.10唐松調書中での、寅葉の帰る汽車時刻についての問いに対し戊野がはじめ二時四〇何分だと変なことを言い、九時半だと答え直したという供述部分は、その趣旨を解するに苦しむが、これをもつて本謀議の成立を推認することを得ない。寅葉が汽車顛覆計画につき一六日までに他の者と謀議していたという戊野自白は信用すべきでないし、この日の東芝側との連絡についての役割はどのようにして定まつたのか等の点について、これを認めるに足る何らの証拠のないことも従来指摘されていたとおりである(参照、上告審判決二三頁)。これを要するに、前示のように信憑性に問題のある戊野および巳下自白によつては、本連絡謀議を肯定することができない。

3(12)のバール・スパナの持出し

事故現場付近の水田から発見されたバール・スパナについては、それによつて果して、事故原因である軌条の破壊が行なわれ得たものであろうかの問題とともに、それが果して松川線路班に備付けの品であつたか否か、また巳下・午山・癸木の三名によつて一六日夜同班から持ち出されたか否かが争われてきた。

証拠品であるバール・スパナについては、原審検証の結果によると、バールに螺旋・YおよびXと読めるようなかすかな刻印らしいもの、ないし傷跡のあることは格別、スパナにはそれもなく、ともに的確に松川線路班の備品であることを識別するに足る刻印等の特徴はない。それで刑事事件では、松川線路班の備品の定数ないし事故前の現在数と事故後のそれについての資料が数多く提出された。捜査段階における捜査復命書四通、顛末書三通、供述調書八通のほか、公判でも一審と原二審とで証人乙川D郎および壬岡D平の尋問が行なわれた。これらの資料にあらわれたところは区々であるが、バールについては、事故前一二挺現存したのに、事故後の調査では十一挺しかなく、結局一挺紛失したということで一致し、自在スパナについては、事故前にあつたのが一挺ないし三挺であり、事故後一挺とするもの、全資料一四のうち一一に達し、または零とするもの、同二であつて、結論として資料の多くは一挺紛失したとするが、そうでないとするものもある。ところでバールについては、一六日夕刻の終業時に点検したときに一二挺現存した旨の乙川D郎の供述がかりに正しいとしても、壬岡D平および乙川D郎の公判における各証言によると、翌朝事故直後に何本かを持ち出しており、それが応援の他の線路班の者が持参したバールと混つた後に、事故現場に集められた総数から松川以外の他班の者が持参したとする分の数を差し引いた残りが四本であつたところからこの数をもととして前記の事故後の松川線路班におけるバールの現在数が一一本という数字を出したというのである。そうして前記の証言によると、複数の線路班の者が、共同して、本来或る線路班の責任に属する一つの作業をするときは、終業のとき前記の方法によつて責任線路班が持ち帰るべき工具の数を決めることが習慣とされているようである。このことは、通常の場合に各線路班持寄り・持帰りの工具の数につきその都度正確な点検が行なわれる限り便宜の方法と考えられるが、本件の場合にこの方式にならつて、前記のような残りの員数が、直ちに松川班の持出し数(前記の残りの員数は、作業責任班が一応自班の物であるとして持ち帰えることのできる数を示すに止まる。必ずしも、その班が始業時に持ち来つた数と一致しないことが有り得る。)に外ならないとする唯一の調査方法に頼つたのでは、調査として結果の正確なことの保障とならない。右の方式による調査の結果もまた、工具搬出時に確認した数と一致して正確だつたか否かは、確かめられておらない。搬出時の員数が確かめられていない限りはやむを得なかつたにしても、要するに、前記のような不正確な方式によつては、バール一挺紛失という結論は、必ずしも決定的であるといえない。つぎに、自在スパナの事故前の数が一ないし三であるというように資料が区々であるのは、前掲原二審乙川・壬岡各証言に見えるように、当時の線路班にあつては、自在スパナが日常の作業上それほど重要な備品でなく、現に事故後の復旧工事にも持ち出されず、かつ小型の物であることと、前掲各資料によると、当時修理に出してあつた物の員数が一であるとするものと、二であるとするものとがあつて、定かでないこととのためと思われる(修理中の物については、修理引換券が保管されていたというのに、それは、押収されていない。)これに反し、前掲資料の多数が事故後調査のときの現在員数一とする点は、バールと異なり、事故後の復旧工事のときに持ち出されていないから、確実な調査結果として注目に値いする。ところで、<証拠>を併せ考えると、事故後に福島保線区の係員が松川線路班に来て、現場発見のものと同種・同型の自在スパナ一挺を持ち去つたこと、八月二四、五日頃保線区長名で調査した結果によると、松川線路班に現存する自在スパナの数が零であつたことが認められ、また<証拠>によると、昭和三五年七月五日に至つて、松川線路班から持ち去られた品に当ると見られる自在スパナ一挺が同駐在所の事務室から発見されたことが認められる。以上の事実は、事故の直後に松川線路班に現在した自在スパナが一挺であつたことを裏付けるものといえよう。かくして、事故後の実数が一であると認められる限り、事故前の実数も一なら、その間に紛失はないことになり、二以上であつたと認められるときにのみ紛失を肯定できることになるわけである。しかるに、事故前日の一六日に点検したという前掲乙川供述は、自在スパナについての前記性状にかんがみ、バールについての点検に関する供述以上に信用しがたく、同人の述べる員数も修理中の物を含み二または三と区々であり、かつ、修理中の物の数が一であつたか、二であつたかを確認しえないことは、前記のとおりである。これらの数のいずれをとるかによつては、紛失の認められなくなる公算もないではなく、結局自在スパナが紛失したとすることについても、疑いの存することになる。

一六日夜一一時頃バール・スパナを松川線路班倉庫から持ち出したことについては、午山・巳下および癸木の各自白ならびに同人らがその頃労組事務所から外出し、帰所したとする辛田および未川の各供述がある。しかし、午山自白中の板戸を手で押したら中に開いたという最初の供述が戸の構造上事実に反すること、午山も他の二人とともに中へ侵入した旨はじめの供述が、同人の後の供述および巳下・癸木の供述で、午山は倉庫の外で見張りしていた旨の供述に照らし不自然・不合理であること、その他細かい多くの点で三人の供述に不一致があること、三人が帰つた来たのを見たという未川の供述にも前後に不一致・矛盾の存すること等が、刑事事件で指摘され(参照、再上告審判決三〇頁以下)、当裁判所の見るところも同じである。したがつて、このような疑いの存する各自白は、これを信用すべきではあるまい。

4最後に、(2)の電話連絡、(8)・(10)の東芝側だけの謀議、(11)のアリバイ工作についても、これらの事実に関係があるとされた前掲各人の自白が存する。しかし、これらの各事実の前提をなすか、その後行事実とされる他の、前説明にかかる重要事実についての各自白が信用すべきでないことは、上来説明し来つたところであり、残るこれらの点についての自白だけを特に信用するに足るとするだけの事情も認められない。

なお、これまで判断を加えたアリバイ主張のほかにも、たとえば実行行為に関する庚崎、一三日連絡謀議に関する壬岡、一三日および一五日各連絡謀議に関する甲山らのアリバイ主張があるが、本件の起訴、その維持の適法性の有無を判断するについては以上で十分と考えるので、これらの主張に対する判断を省略する。

五  公訴の提起、その維持の違法性、過失についてさきに指摘したように、一三日および一五日の各連絡謀議に関する戊野自白、一五日国鉄側謀議および実行行為に関する庚崎自白、実行行為に関する辛田自白には、これを現実に謀議に参加し、もしくは実行行為を行なつた者の供述としてみると、合理的に説明することの困難な多くの疑問点を含んでおり、殊に戊野自白は支離滅裂で、それだけでは到底その信用性を認めえないものである。かかる自白の信用性を肯定させるめには、他に強力的確な補強証拠が必要である。しかるに検察官がそれとして挙げているものは、前記のように被告人らと犯行とを直接に結びつけることのできるものは何一つとしてないばかりでなく、各自白の補強として役に立つようなものではない。

このような場合、検察官として一部の者の自白を唯一の根拠として、そこに内在する矛盾を解消しないままで漫然と起訴にふみ切つてよいとは考えられない。検察官としては、起訴にさき立つてこれらの矛盾の解明に努力すべきである。そうでなければ裁判所としては、自白、殊に裁判所の面前でなされたものでない自白について、その信用性のよりどころを見出すことができないのである。証拠判断に関する裁判官の自由心証も、もとより社会通念による論証に耐え、人をして納得させるに足るものでなければならないのである。

殊に本件においてはアリバイに関する主張がなされている。さきにも述べたように、被疑者からアリバイの主張がなされた場合(主張がなくともその資料が浮び上つてきた場合を含む。)には、虚心に耳を傾け、これについて十分な捜査をすべきである。それは真実発見のため公正な捜査をなすべき検察官の職責からして当然のことである。殊に身体を拘束されている被疑者については、これらの者は自らは積極的に資料を収集することができないのであるから、これは一層強く要求されるわけであろう。そしてその結果収集された資料については、公正な立場でその証拠価値を十分に検討すべきである。

本件においては、さきに各アリバイに関する資料として掲げたように、捜査の段階から起訴後にわたつて一応多くの資料が収集され、その結果検察官は、たとえば壬岡の一五日国鉄側謀議参加に関するアリバイを、公訴提起前既に認めるに至つたが、収集されたその他の証拠の中には、丑木R作・乙川・壬岡および卯波らの前記各アリバイの成立を認めさせるに足る有力なものが少なからず存在していたわけである。したがつて、一方庚崎自白によれば、卯波・壬岡は一六日夜犯行現場およびその往復の途上にいたことになり、他方アリバイ関係の証拠によれば、同一の時刻に卯波は国労福島支部事務所に、壬岡は自宅にいたことになり、また戊野自白によれば、乙川は一三日、丑木は一三日および一五日の各正午頃は国労福島支部事務所にいたことになるのに対し、アリバイ資料によれば、乙川は一三日は郡山に、丑木はいずれもその頃東芝松川工場にいたことになり、同一人の同一の時刻における所在行動について相反する証拠があらわれたわけで、当然それぞれの証拠の信用性が問題となる。しかるに、右各自白には、その信用性に疑いを懐かせる幾多の理由があり、その補強証拠として見るべきものはないのに反し、アリバイに関する証拠は、通常の場合、ある人のある時点における所在行動を窺わせるものとして、これ以上のものが得られるとは思われない程有力なものばかりで、その信用性を疑う合理的な理由を見出すことのできないものである。検察官が虚心に以上の各証拠の評価をすれば、これに気付かないわけはなかつたと思われる。

かかる場合に、検察官としては、この状態で自白に基く起訴にふみ切ることは、前記のような検察官の職責からして当然これを差し控えるべきで、なお、一方自白の信用性を確認するに足るものがあるかどうか、他方アリバイ証拠の採用しえない所以を合理的に説明することができるかどうかを究明すべきであろう。起訴の後においても、アリバイの成立が明らかになつたときは、公訴の維持にこだわることなく、公訴の取消などの相当な処置に出るべきであろう。

右のアリバイに関する証拠価値の判断は、その結果がひとり当該の被告人の犯罪の成否にかかわるばかりでなく、各自白の信用性の判断、ひいては事件全体の成否の判断に決定的な影響をおよぼすことになるだけに、その取扱いについて一層慎重かつ公正な配慮が望ましかつたと思うのである。

以上諸般の事情を考慮し、なお、基本的人権の尊重を宣言した憲法の精神にかんがみるときは、本件の公訴の提起・維持は国家賠償法による賠償の対象となる違法行為を構成するものと認めるのが相当である。そしてこの違法性の具備について以上説明したところからして、当然に検察官の過失の存在を推認することができる。

刑事一審判決は庚崎・辛田および戊野の各自白およびその他の自白の信用性を肯定して被告人の全員につき有罪の判決をし、原二審判決は庚崎・辛田の各自白、戊野自白の一部およびその他の自白の信用性を肯定して、丙谷・乙川および丁沢をのぞくその余の被告人らに対し有罪を判決をした。また上告審大法廷判決の少数意見は、原二審判決の結論を支持すべきものとした。しかし、これまで掲げた証拠のうち寅口メモ、甲48号証以降の番号の甲号各証は(但し、庚崎9.19甲川調書は、その内容の一部が原二審一〇七回公判において検察官の釈明として顕出されていた、原判決二〇二四頁、集六九三頁参照)、いずれも差戻後の二審以後に法廷に顕出されたものであり、前記乙川のアリバイに関する証拠として掲げた警備勤務表、来訪者芳名簿および乙91号証以下の番号の乙号各証は、本件の民事一審においてはじめて提出されたもので、いずれもはじめの上告審以前の段階の各裁判所における判断の資料とされなかつたのである。そしてさきにその都度指摘しておいたように、これらの証拠のなかには各自自の信用性の評価について、またアリバイの成立を認定する資料として、裁判所の心証形成の上において重要性のきわめて高いものが少なくない。したがつて刑事事件の右の二つの判決および上告審大法廷判決の少数意見が、庚崎・辛田および戊野の各自白の信用性を肯定した事実があつても、検察官がしたこれらの各自白の評価に関する判断が、人によつて通常生じる判断の誤差の範囲内のものとして是認すべきものと考えるのは相当でない。

第三  被控訴人らの主張するその他の違法行為について

被控訴人らは、検察官が寅口メモ・乙野メモ・来訪者芳名簿などの重要な証拠を刑事事件の法廷に顕出しなかつたことなどの、原判決が第九章第二節(原判決三一九二頁以下、集一〇八五頁以下)でとりあげている検察官の行為およびその他の検察官の公訴追行上の行為の過失を主張するが、本件において、被控訴人らに賠償すべき後記認定の損害の額を算定するについては、以上認定の公訴の提起維持の違法を説明するだけで十分と考えるので、右の検察官の行為についての違法性の有無に関する判断は、これを省略する。

本件の捜査の経過を見ると、はじめにいわゆる庚崎予言に基づいて庚崎が逮捕され、その後のもと被告人らの逮捕は、いずれも共犯者とされた者の自白に基づいて行なわれたものである。庚崎予言の実体については、さきにくわしく検討したところであるが、庚崎逮捕の日である九月一〇日の段階において、警察官が庚崎予言に基づいて、庚崎に対し本件列車顛覆の犯行につき一応の嫌疑をかけたことについて、特にこれを行き過ぎたものと断定することはできない。したがつて、その捜査のため身体を拘束する必要があると判断したことについても、たやすく瑕疵を認めるのは尚早といわなければならない。その余のもと被告人らの逮捕も、一応共犯者とされた者の自白がある以上は当時その嫌疑について捜査のため身体を拘束する必要があると判断したことについて、法の許容する範囲を超えた違法ありということはできない。また被控訴人らは、庚崎らの逮捕についての捜査官の故意を主張するけれども、これを認めるに足る証拠はない。したがつて、本件のもと各被告人らに対する起訴前の逮捕・勾留については違法性の具備を否定すべきである。

なお、被控訴人らは、庚崎に対して九月一〇日に執行された逮捕が、いわゆる別件逮捕として違法であると主張するが、いわゆる別件逮捕については、いまなおその適否が争われているのであるから、昭和二四年当時にされたそれについては、いずれにしても少なくとも過失の存在を肯定することが困難と言わなければならない。

第四  損害

被控訴人らが検察官の前記違法行為によつて損害を蒙つたこと、控訴人がこれを賠償すべき義務があること、およびその金額の点については次に訂正附加するほかは、原判決三四六一頁六行から三四九一頁五行まで、集一一七四頁四行から一一八七頁七までに記載のとおりであるから、これを引用する。

一被控訴人らの身体拘束の期間は、次の表に示すとおりである。

氏名

逮捕

起訴

執行停止

収  監

保釈

無罪判決

拘束日数

備考

甲山

9.22

10.13

34.7.1

自24.9.22

至34.7.1

三、五七〇

卯波

9.22

10.13

29.5.18

29.6.1

34.7.1

自24.9.22

至34.7.1

三、五七〇

最終執行停止中に保釈

32.2.27

32.2.27

34.6.5

――

辛木

10.4

10.26

29.3.21

29.4.7

34.7.1

36.8.8

(後二審)

自24.10.4

至34.7.1

三、五五八

丑木R作

9.22

10.13

25.1.25

25.1.28

34.5.19

自24.9.22

至34.5.19

三、五二七

最終執行停止中に保釈

27.7.3

――

未山

9.22

10.13

34.5.8

自24.9.22

至34.5.8

三、五一六

辰口

9.22

10.13

27.12.20

28.1.22

34.5.8

自24.9.22

至34.5.8

三、五一六

壬岡

9.22

10.13

33.12.24

自24.9.22

至33.12.24

三、三八一

戊野

10.4

10.26

32.10.15

――

34.5.8

自24.10.4

至34.5.8

三、五〇四

執行停止中に保釈

丙谷

10.21

11.12

27.7.12

――

28.12.22

(勾留状失効)

28.12.22

(原二審)

自24.10.21

至28.12.22

一、五二四

執行停止中に保釈

庚崎

9.10

10.13

28.11.27

28.11.30

32.1.12

36.8.8

(後二審)

自24.9.20

至32.1.12

二、六八二

9.10逮捕は別件暴行逮捕

9.21

29.2.20

29.2.24

乙川

10.21

11.12

26.11.12

――

28.12.22

(勾留状失効)

28.12.22

(原二審)

自24.10.21

至28.12.22

一、五二四

執行停止中に保釈

辛田

9.22

10.13

28.12.24

36.8.8

(後二審)

自24.9.22

至28.12.24

一、五五五

丁沢

10.21

12.1

28.12.22

(勾留状失効)

28.12.22

(原二審)

自24.10.21

至24.11.12

自24.12.4

至28.12.22

一、五〇三

24.11.12勾留満期釈放

24.12.4勾引勾留

丑木A雄

10.4

10.26

28.12.24

36.8.8

(後二審)

自24.10.4

至28.12.2

一、五四三

寅葉

10.21

11.12

28.12.24

自24.10.21

至28.12.24

一、五二六

丑口

10.17

11.7

28.12.22

自24.10.17

至28.12.22

一、五二八

巳下

10.4

10.26

27.11.27

28.12.22

(不収監)

自24.10.4

至27.11.27

一に一五一

午山

10.4

10.26

27.12.3

28.12.22

(不収監)

自24.10.4

至27.12.3

一、一五七

癸木

10.8

10.26

27.12.3

28.12.22

(不収監)

自24.10.8

至27.12.3

一、一五三

24.9.18別件窃盗で逮捕

24.9.24釈放

未川

10.17

11.7

26.5.12

28.12.22

(不収監)

自26.10.17

至26.5.12

五七三

二原判決三四七四頁八・九行、集一一七九頁一行の「第二章以来論証したとおり、無実でありながら」を削る。

三原判決三四七七頁一行の「これらの」から四行まで、集一一七九頁一五行の「これらの」から一七行までを削り、そこに次のとおり挿入する。

これらのいつさいの事情とともに、さきに認定した検察官の違法行為の態様・過失の態様を考慮に入れなければならない。

四原判決三四七七頁五行から三四七八頁九行まで、集一一七九頁末行から一一八〇頁八行までを削り、そこに次のとおり挿入する。

妻は夫と同居し、夫婦としての共同生活を営んでこそ、妻としての人生の意義を全うすることができるのであるが、被控訴人甲山B子・同辰口C美・同壬岡A代・同辛木D江・同戊野F子は、夫が検察官の違法な勾留によりさきに示した身体拘束の期間などに関する表に明らかなとおり、執行停止又は保釈までの間に八年ないし九年余の長期間にわたつて隔離されたため、人生の重要な部分において、その意義を全うすることをはばまれた。同被控訴人らがそのため、精神上とりかえすことのできない甚大な損害を蒙つたことは察するに余りがある。

同被控訴人らに対しては、その固有の法益が侵害されたものとして、独自の損害賠償請求権を認めるべきである。同被控訴人らに対してこの権利を認める理由を上記のように考えると、その慰藉料の額は、別居を余儀なくされた期間に応じて定めるべきである。そうすると、同被控訴人らの夫が身体を拘束された期間はほぼ同じと言つてよいから、各人に対する慰藉料の額も同額に定めるのが相当である。当裁判所は、原判決が同被控訴人らに認めた慰藉料額のうちの最高額(辛木D江、甲山B子について各一〇〇万円)をもつて、その他の同被控訴人らに対するものとしても高きに失するとは考えない。したがつてこれらの者に対して右金額以下に定めた原判決の認定額は、その限度において正当である。

五さきに述べたように、被控訴人らに対する起訴前の逮捕勾留については、その違法性を肯定しえない。しかし、当裁判所は、原判決(三四七九頁以下、集一一八〇頁以下)が、被控訴人らに対し、控訴人の本件違法行為によつて蒙つた精神上の苦痛に対する慰藉料として認容すべきものとした金額は、右の点を考慮に入れても高きに失するとは考えない。したがつて、起訴前の逮捕勾留について違法性を肯定しえないとしても、原判決が認容した右の慰藉料の額について手直しを加える要はない。

原判決(三四六五頁以下、集一一七五頁)が、被控訴人らに対し、控訴人の本件違法行為によつて蒙つた財産上の損害金として認容した金額のうち、右逮捕・勾留の期間(各人について次のとおり)の得べかりし利益の喪失分は、その請求権なきものとして、これを控除すべきである。

庚崎について、九月一〇日から一〇月一三日までの三四日間

甲山・辰口・未山・卯波・壬岡・丑木R作・辛田について、九月二二日から一〇月一三日までの二二日間

辛木・戊野・丑木A雄・巳下・午山について、一〇月四日から一〇月二六日までの二三日間

丑口・未川について、一〇月一七日から一一月七日までの二二日間

癸木について、一〇月八日から同月二六日までの一九日間

寅葉・乙川・丙谷・丁沢について、一〇月二一日から一一月一二日までの二三日間

しかし、乙川、丙谷および丁沢をのぞくその余の被控訴人らについては、原判決は、同被控訴人らが、すでに刑事補償によつて補償をうけたとして、右期間の損害金の全額以上のもの(一日について金四〇〇円)を控除したから、同人らの請求のうちの、右期間の分の損害金請求はその全額が既に棄却されているわけである。したがつて結局、右の起訴前の逮捕・勾留が適法であつたことの故をもつつて、原判決の同被控訴人らに対する財産上の損害金に関する請求認容部分についても、手直しを加える要はない。

被控訴人乙川・丙谷および丁沢については、原判決は、同人らの右期間の損害金から、一日三〇〇円の割合による刑事補償金額を控除した。したがつて、同被控訴人らの右期間の分の損害金請求のうち、原判決が認容したものは、次の計算のとおり、各金六四六円である。

7,546円−(300円×23)=646円

そして、この期間の分の右各損害金請求を認容すべきでないことは、前記のとおりであるから、同被控訴人らの請求については、原判決が認容した金額から右金六四六円を控除した残額についてこれを認容すべきである。そうすると、同被控訴人らに対しその請求を認容すべき金額は、乙川について金一五二万七五〇六円、丙谷について金二四五万四六〇六円、丁沢について金一二九万五六一八円となる。その余は棄却すべきである。

六戊野E作が昭和四二年一月八日死亡し、その妻の被控訴人戊野F子、子の被控訴人戊野G平、同己原H美、同戊野I吉がこれを相続したことについては当事者間に争いがない。したがつて戊野E作の本件損害賠償請求権金四〇八万八一六〇円は、被控訴人戊野F子がその三分の一の金一三六万二七二〇円を、その余の右被控訴人らがその各九分の二の各金九〇万八四八〇円を、それぞれ相続したことになる。被控訴人戊野F子の請求権は、その固有の請求権金五〇万円と併わせると金一八六万二七二〇円となる。よつて、原判決中、控訴人に対し第一審原告戊野E作、同戊野F子への金員の支払を命ずる部分を右の趣旨において訂正すべきである。

第五  結語よつて、訴訟費用の負担につき、民訟法九六条八九条九二条九三条に従い主文のとおりする。(中西彦二郎 松永信和 坂井芳雄)

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